伊沢城(いさわ)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 伊沢家景か
 遺構  : なし
 交通  : JR徳島線阿波山川駅徒歩35分


       <沿革>
           伊沢四郎太夫家景によって、治承三年(1179)に築かれたと伝わる。家景は大納言・藤原光頼
          の家司であったが、北条時政に事務能力を見出され、源頼朝に仕えて奥州留守氏の祖となった
          人物である。史料上では阿波との関連が認められず、地名から伊沢氏に仮冒した可能性も考え
          られ、阿波伊沢氏の出自については留保が必要と思われる。
           14代当主とされる伊沢越前守頼俊は、出奔した傀儡の守護・細川真之を討つべく三好長治が
          那東郡荒田野へ出陣した際、一宮城主小笠原成助(一宮成相)と共に離反して長治を攻撃した。
          長治は今切城へ敗走したものの、追い詰められて自害した。
           これを受けて、三好氏重臣・矢野国村が讃岐から兵を返し、頼俊を討ち取った。板西に城を築く
          ため町屋に宿泊しているところを襲われたともいわれる。伊沢城と伊沢氏もこのときに滅ぼされた
          とみられるが、詳しい経緯は明らかでない。


       <手記>
           伊沢城は東の金魚池(蛭田池)と西の鎌倉沢に削られ、吉野川河岸が台形にせり出した箇所に
          築かれています。南東麓の池端に城址碑が、鎌倉沢沿いに説明板が建てられていますが、城内
          は畑地や集合住宅などとなっており、明確な遺構は見られません。ちょうど住宅団地の北辺あたり
          を堀切で断ち、曲輪形成していたようです。
           南麓の3軒の民家は「三軒屋」と呼ばれ、かつて伊沢氏の家老が居住していたとか。また鎌倉沢
          に突き出た霊神宮には代々の城主が祀られてるそうです。霊神宮下の谷奥には「鎌倉泉」と呼ば
          れる湧水もあるということなのですが、水は流れているもののどこなのかは分かりませんでした。

           
 東から金魚池越しに伊沢城跡を望む。
南東麓の城址碑。 
 城内のようす。
同じく東西方向の堀があったとされる付近。 
 鎌倉沢と奥に霊神宮を望む。
鎌倉沢沿いの説明板。 
 南麓から伊沢城跡を望む。
 3軒の民家は家老の屋敷跡だそうです。


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