一宮城(いちのみや)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 小笠原長宗
 遺構  : 曲輪、石垣、堀、土塁、虎口、溜池、湧水
 交通  : JR徳島駅よりバス「一の宮札所前」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           暦応元/延元三年(1338)、阿波国守護小笠原長房の四男長宗によって築かれたと
          される。一般には、長宗は一宮神社大宮司職一宮宗成を攻め滅ぼして新たに一宮氏を
          称したといわれているが、『一宮系図』には「祭官伝神相伝之」と記されていることや、
          長宗以降の一宮氏が小笠原氏の通字「長」ではなく、宗成の「成」の字を継承している
          ことから、長宗が比較的穏やかに一宮大宮司一宮氏を襲封したものとみる向きもある。
           一宮氏は南朝に属したため、北朝の阿波守護細川頼春にしばしば攻撃された。一宮
          城も何度か戦場となったといわれているが、観応元/正平五年(1350)に、長宗の子
          成宗はついに頼春の子頼之に降った。
           戦国時代に入り、細川氏に代わって三好氏が台頭すると、同じ小笠原流の一宮氏の
          存在感は大いに高まった。しかし、三好長治は元亀三年(1572)に後見役の篠原長房
          を上桜城に討って家臣の信望を失った。12代一宮成助(小笠原成相)は細川真之と
          結び、天正五年(1577)に長治を戦死させた。成助は土佐の長宗我部元親と通じたが、
          長房の同族である篠原自遁に一宮城を攻められ、焼山寺に退いた。
           天正七年(1579)の脇城外の戦いで三好方が元親勢に大敗すると、成助はその隙に
          一宮城に復帰したとされる。長治の跡を継いだ弟の十河存保とその大叔父三好康長が
          織田信長の傘下に入ると、成助も織田氏に従ったとも、長宗我部方にとどまって存保ら
          の攻撃をしのいでいたともいわれる。
           天正十年(1582)の本能寺の変で信長が斃れると、後ろ盾を失った存保は同年中の
          中富川の決戦で元親に大敗した。成助はこの戦いで長宗我部氏に属して戦ったとされ
          るが、戦後に康長との内通を疑われ、恩賞の相談と称して夷山城に誘殺された。一宮
          城を接収した元親は、同城の北城に谷忠澄、南城に江村親俊を配した。南城は、この
          ときに拡張された部分といわれる。
           天正十三年(1585)の羽柴(豊臣)秀吉による四国攻めに際し、一宮城は主戦場の
          1つとなった。7月上旬には、羽柴秀長率いる4万ないし5万の大軍が一宮城に攻め寄せ
          たが、1万ないし5千といわれる籠城方の兵はこれをよく防いだ。しかし、寄せ手が坑道
          を掘って水の手を断ったことで、同月中旬に開城・撤退した。城将の忠澄は主君元親の
          いる白地城へ赴き、実戦で目の当たりにした上方勢との軍備の差を引き合いにして、
          降伏を促したといわれる。
           戦後、阿波一国は蜂須賀家政に与えられ、家政は一宮城を仮の居城とした。現在の
          一宮城の石垣は、家政時代に築かれたものと考えられている。同時に新城の築城を
          進めていた家政は、翌天正十四年(1586)に完成した徳島城へ移り、家臣益田持正が
          一宮城主となった。阿波九城の1つとして重きを成したが、一国一城令発布後の寛永
          十五年(1638)に廃城となった。


       <手記>
           一宮城は、吉野川の河口近くで合流する鮎喰川をいささか遡った中流域に位置して
          います。一見するとやや奥まったところにあるように思えるのですが、いざ登ってみると、
          徳島市街は眉山の陰になるものの、鳴門方面と徳島港方面がバッチリ望め、意外にも
          かなりの要衝であることが分かります。
           山麓の一宮神社前から登山道が整備されていて、ぐるっと城山を回って別の谷から
          戻ってくるようになっています。登りはじめて最初に出くわすのは、神宮寺跡という曲輪
          とも堂跡ともつかない小区画で、さらに登ると竪堀を経て、蔵跡という尾根先の曲輪に
          出ます。さらに尾根筋の腰曲輪を脇目に登ると、目の前に才蔵丸の切岸が現れます。
          この切岸はかなりの規模と傾斜で、早くも一宮城の堅城ぶりを目の当たりにすることが
          できます。道は沢の湧水を経て才蔵丸と明神丸の間の堀切に至ります。才蔵丸は広さ
          のある独立した出丸ですが、切岸の豪快さに比べて堀切からの虎口は単純な平入り
          となっています。
           堀切を挟んで才蔵丸の反対側へ進むと、峰の鞍部に石段付きの門跡があり、それを
          抜けて鞍部を右に進めば明神丸に、左なら本丸に出ます。明神丸は、現在の一宮城で
          もっとも眺望の開けた曲輪となっています。
           本丸に到着したことは、城内唯一の隅石付き本格石垣が屹立しているさまを見れば
          誰でもすぐに理解できます。狭い敷地に平石を急勾配に積み重ねた石垣は、来城者を
          圧倒するに十分です。ただ、ここもやはり虎口は平入りで、縄張り上の工夫はほとんど
          見られません。工夫を凝らすには面積が足りないのか、そもそも天嶮に拠っているの
          だから縄張りに力を入れる必要がなかったのか。気になる点ではあります。
           本丸の一段下には釜床跡が、そして南に下りて行くと礫石が残っています。本丸南
          の尾根筋には堀切が2条と、曲輪がいくつか連なり、そこから西に曲がると堀切を経て
          小倉丸に至ります。ここからがおそらく、拡張部分の南城と思われます。小倉丸は、
          土塁上を先端の櫓台跡まで歩けますが、曲輪内はシダ藪に覆われていて歩くことは
          困難です。ただ、小倉丸の一番の見どころはむしろ周囲を取り囲む空堀にあるといえる
          でしょう。
           さらにもう1つ西側の峰は、椎丸を抜けて水の手丸へと続いています。ですが、椎丸
          に到達したところでシダ藪があまりにひどくなり、そこから先は断念することにしました。
          小倉丸と椎丸の間の谷筋を下ると、沢を堰き止めた貯水池に出ます。池の外側は滝
          になっていて、今も水が流れ落ちています。才蔵丸下の湧水といい、水が容易に得ら
          れたことも、この城が堅城たるゆえんの1つでしょう。
           ここからさきは穏やかに沢谷戸を下って、また一宮神社に戻ります。コンパクトながら、
          戦国の山城の魅力がギュッと凝縮されたような、魅力的な城跡だと感じました。

           
 一宮城址遠望。
登りはじめて最初に出会う竪堀。 
 倉跡。
倉跡背後の尾根筋の腰曲輪。 
 才蔵丸の切岸。
才蔵丸下の湧水。 
 才蔵丸と明神丸の間の堀切。
才蔵丸の平入りの虎口。 
 才蔵丸の内部。
明神丸下鞍部の門跡。 
 明神丸の虎口。
明神丸のようす。 
 明神丸からの眺望。
本丸石垣。 
 本丸のようす。
本丸一段下の釜床跡。 
 本丸南西面石垣隅。
本丸南側下に残る礫石。 
 本丸南尾根筋の堀切その1。
本丸南尾根筋の曲輪。 
 本丸南尾根筋の堀切その2。
小倉丸下の空堀その1。 
 その2。
その3。 
 小倉丸の土塁上のようす。
小倉丸先端の櫓台。 
 椎丸上段から下段を俯瞰する。
貯水池跡。 
 貯水池の陰滝。
一宮神社。 


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