石岡城(いしおか)
 別称  : 外城、府中石岡城
 分類  : 平山城
 築城者: 大掾資幹
 遺構  : 土塁、堀
 交通  : JR常磐線石岡駅徒歩20分


       <沿革>
           建保二年(1214)、大掾資幹がこの地に館を営んだのがはじまりとされる。大掾氏は、平国香の子
          貞盛にはじまり、貞盛の養子で甥の維幹が常陸大掾に任じられたことから、大掾を姓とした。資幹は、
          大掾氏庶流吉田氏の分家馬場氏の出身であったが、嫡流の多気義幹が失脚したため、大掾氏宗家
          を継いだ。
           南北朝時代に城郭として整備されたとみられ、現地説明板によれば『税所文書』に大掾高幹の居城
          として「府中石岡城」が登場する。高幹の子詮国は、貞和二/正平元年(1346)から5年をかけて、
          常陸国府跡に府中城を築城して移った。以降石岡城は外城(とじょう)と呼ばれ、府中城の支城ないし
          出城として位置づけられることとなった。
           現地説明板によれば、近世後期の地誌類に、外城の城主として石岡某・札掛兵部之助・田島大学
          などの名がみられるという。現在城跡の一角に鎮座する札掛神社は、大掾詮幹の家臣札掛民部介に
          よって創始されたものと伝わる。
           天正十八年(1590)の小田原の役で、大掾氏は北条氏に与したため、戦後その領地は豊臣秀吉
          に与した佐竹義重に与えられた。義重は同年十二月に府中城を攻め、大掾清幹は自害し、大掾氏は
          滅亡した。このときに外城も廃城になったとされるが、府中城攻防にともなう戦闘が外城でもあったか
          はどうかは不明である。


       <手記>
           石岡城は、恋瀬川の河岸段丘の一端を利用して築かれた城です。同じ段丘上の北西700mほどの
          ところに府中城があります。
           城の北東隅に札掛神社があり(現在は岡田稲荷神社と合祀か)、その鳥居脇に説明板が設置され
          ています。この神社の北側に、城内最大の遺構のひとつである土塁と空堀があります。
           主城域は神社のひとつ西側の舌状台地上にあり、現在は広大な畑地となっています。その畑地を
          南北に分断するように空堀が残っています。この堀は藪に覆われていて底が見えないのですが、幅
          はみてとることができます。この堀によって、今でも南北の畑地の間を行き来することができません。
          造成の際に邪魔だからと埋められても仕方ないような堀なのですが、それがこのようにしっかり残って
          いるというのは、ほとんど奇跡のように感じました。畑地の両サイドは切岸状になっているのですが、
          当時のままなのかどうかは判別できません。
           神社北側の道を西に進んで鉤手に折れる部分は、本丸の北東隅にあたり、地元では鐘撞堂と呼ば
          れています。この箇所は、本丸北東隅にでっぱりのように張出しています。鐘撞堂とは、一般に狼煙
          が上げられない雨のような日に緊急を伝えるために鐘を鳴らす施設を指し、ここには文字通り鐘撞堂
          や狼煙、物見のための施設があったものと推測されます。鐘撞堂はじめ、本丸の周囲の畑地は一段
          低くなっており、堀跡と思われます。
           石岡城は、府中城が常陸国府跡に建てられているのと同様、茨城郡家跡に築かれたとされ、土中
          からは条里制遺構が見つかっているということです。石岡城の本丸が舌状台地の先端ではなく、一段
          奥まったところにあるのは、郡衙跡を利用して資幹が館を築き、その館跡を本丸として城塞化された
          ためではないかと推測されます。

           
 石岡城址を西から望む。
札掛神社(岡田稲荷神社)。 
 神社裏手の空堀と土塁。
本丸南側の空堀。 
 鐘撞堂跡。
 手前の畑地は堀跡。
本丸南側の曲輪(二の丸か)のようす。 


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