府中城(ふちゅう) | |
別称 : 府中陣屋 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 大掾詮国 | |
遺構 : 土塁、堀跡、陣屋門 | |
交通 : JR常磐線石岡駅徒歩15分 | |
<沿革> 常陸の名族大掾氏の居城である。大掾氏は平国香の子貞盛にはじまり、貞盛の跡を継いだ 甥の維幹が常陸大掾に任じられたことから、大掾を姓とした。貞和二/正平元年(1346)、大掾 詮国は常陸国府跡に府中城の築城を開始し、5年をかけて完成させ、それまでの居城石岡城 から移った。築城に先立つ建武五/延元三年(1338)には、詮国は南朝方から北朝方へと転じ、 南朝方に留まった小田治久と対立していた。 戦国時代に入ると、大掾氏は北の江戸・佐竹氏や南の小田氏をはじめ、周囲の諸勢力との 軋轢の狭間で苦慮することになった。天正五年(1577)に大掾貞国が亡くなり、5歳(数え)の 嫡子清幹が跡を継ぐと、大掾氏の弱体化は顕著となった。同十四年(1586)には、江戸氏に 府中城下まで攻め込まれる事態にまで陥った。このときは佐竹氏の仲介もあって、江戸氏も 兵を収めたが、同十六年(1588)には佐竹氏も江戸氏に協力して大掾氏を攻撃した。大掾氏は ほとんど滅亡寸前まで追い詰められたが、同十八年(1590)に小田原の役が起こり、関東の 情勢は北条氏v.s.豊臣氏の構図をもって仕切り直しとなった。大掾氏は北条氏と結び豊臣秀吉 のもとへ参陣しなかったため、戦後事実上の改易となり、その所領は佐竹義重にお墨付きが 与えられた。義重は、大掾氏や同じく小田原に参陣しなかった江戸氏を攻撃した。同年十二月、 佐竹軍に府中城を攻撃され、激戦の末に清幹は自刃して大掾氏は滅亡した。 『日本城郭大系』によれば、府中城には義重の子で義宣の弟の義尚が入ったとある。しかし、 義重の子に義尚という人物は見受けられない。義尚という名の義重の弟はいるが、小田原の 役の時点ですでに死亡している。 関ヶ原の合戦後の慶長七年(1602)、佐竹氏は出羽へ移封となり、府中へは代わって出羽 から六郷政乗が1万石で入った。元和九年(1623)、政乗は2万石に加増された上、出羽本荘 へ転封ととなった。代わって皆川広照が1万石で入り、最盛期には1万8千石にまで加増された が、孫の成郷が嗣子なく没したため、正保二年(1645)に無嗣断絶となった。 その後しばらく天領となっていたが、水戸藩から2万石を分与されて保内藩を立蕃していた 徳川光圀の弟松平頼隆が、元禄十三年(1700)に幕府から府中周辺と陸奥国に所領を付け 替えられ、府中に陣屋を置いた。ただし、府中藩松平氏は定府大名だったため、陣屋に藩主用 の御殿が建設されることはなく、ほとんど奉行所のようなものだったといわれる。松平氏は10代 続き、明治維新を迎えた。 <手記> 府中城は恋瀬川の河岸段丘の一端に位置していて、丘の上には石岡の街が広がっています。 現在、城の中心部は石岡小学校の敷地となっています。最盛期の府中城はかなり広大たっだ ようで、谷を挟んだ南側の清涼寺なども、出城として城内に組み込まれていたようです。 残念ながら、往時の規模に比して遺構は多いとはいえないようです。もっともはっきりした遺構 は、小学校東辺の土塁と空堀です。この土塁と堀は、位置的にみてもおそらく大掾氏時代から 続くものであると思われます。土塁の南端には陣屋時代の門が移築されています。『大系』には 小学校の南東にも土塁が残っているように書かれていますが、現在はスーパーが建っていて、 消滅してしまったものと思われます。 府中城の南東700mほどのところには、大掾氏の府中城以前の居城とされる石岡城がありま した。府中移転後は外城と呼ばれ、支城として機能したとみられています。両者は近い位置に ある上に、同じ川の河岸上なので地形も似通っています。したがって、防衛上はわざわざ移転 する理由があまり見いだせません。おそらく、常陸国府の跡に居城を構えることで、混沌とする 常陸情勢のなかで自身の国内における正当性をアピールしようとしたのではないかと推測され ます。 ちなみに、府中城の門前は水戸街道の旧府中宿となっています。今でも、昭和初期の石造の 建造物が点在し、古い街並みを残しています。 |
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土塁と空堀。 | |
府中陣屋門。 | |
本来陣屋門があった位置に建つ石碑。 |