岩村田城(いわむらだ)
 別称  : 上ノ城、藤ヶ城
 分類  : 平城
 築城者: 内藤正誠
 遺構  : 土塁
 交通  : JR小海線岩村田駅徒歩20分


       <沿革>
          武蔵赤沼藩主内藤正友は、元禄十六年(1703)に大坂城代に着任すると同時に、
         岩村田1万6千石に移封された。岩村田は、すでに中山道の宿場町として発展して
         いたところで、内藤家は宿内の横町に陣屋を構えたため、武家町を周辺に建設する
         ことができなかった。藩士の多くは、宿の南の上ノ城に居住していたといわれる。
          安政五年(1858)、6代藩主内藤正縄は城主格に昇格した。正縄が老中水野忠邦
         の実弟であったことや、安政の大獄に貢献したことが理由とされる。これを受けて、
         7代藩主正誠(正縄の嫡孫)は元治元年(1864)に岩村田城の新規築城を計画した。
          しかし、まもなく明治維新を迎え、城は未完成のまま廃城となった。陣屋機能の
         移転については、『日本城郭大系』ではすでに行われていたのではないかと推測
         しているが、詳細は不明である。


       <手記>
          岩村田城は、市街地(旧岩村田宿)の南東、湯川の河岸上に位置してします。
         現在の岩村田小学校および藤城神社境内一帯が中心部とされ、県道138号線に
         沿って西端の大手堀が設けられていたとされています。
          藤城神社境内には城址碑が、その西隣の招魂社の斜面脇には簡単な説明板が
         設置されています。未完成であることを差し引いても、城の全体像を把握するのは
         今では困難といえ、両神社周辺に本丸のものと思われる土塁がみられる程度です。

          
 岩村田城址碑。
藤城神社の斜面。 
土塁跡…にしては縄張りと合いません。 
 招魂社西側の土塁。
 本丸西辺のものか。
招魂社境内裏手の土塁。 
本丸北辺のものか。 
 大手堀があったとされる県道138号線沿いのようす。


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