大坂城(おおさか)
 別称  : 金城、錦城
 分類  : 平城
 築城者: 羽柴秀吉
 遺構  : 櫓、門、蔵、天守台、石垣、堀など
 交通  : JR大阪環状線大阪城公園駅、京阪本線天満橋駅、
      地下鉄大阪ビジネスパーク駅等下車


       <沿革>
           天正十一年(1583)、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、織田信長の後継者としての地位を
          固めた羽柴秀吉は、大坂の石山本願寺跡地に新たな居城の建造を開始した。早くも翌十二
          年(1584)には、山崎城(宝寺城)から大坂城へ移っている。もともと大坂築城は信長が企図
          していたものであることが、『信長公記』に記されている。築城開始からわずか1年半ほどで
          完成していることや、普請開始からほどない同十一年七月に秀吉が大坂で茶会を催している
          ことなどから、信長存命のころから多少なりとも工事が行われていたのではないかと推測され
          ている(『探訪ブックス 近畿の城』など)。もっとも、全体の完成までにはさらに時間を要し、同
          十三年(1585)に天守が建造され、翌十四年(1586)から二の丸の建設が始まった。
           天下統一を果たした秀吉は、文禄元年(1592)から伏見城築城を開始し、同三年(1594)に
          移った。同年、大坂城総構えの建設も始まり、この普請は秀吉死後まで続いた。
           慶長三年(1598)に秀吉が伏見城で没すると、秀吉の子秀頼は大坂城へ移った。翌四年
          (1599)には、五大老の1人徳川家康が秀頼の輔弼と称して大坂城西の丸に入った。家康は
          西の丸に五重の天守建築を新たに設け、政務を代行した。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いは、東軍の家康・西軍の石田三成の双方とも豊臣家の
          御為を標榜しており、秀頼と生母淀殿は大坂城にとどまっていた。しかし、その戦後処理で
          家康は豊臣家の所領を諸大名に分配し、秀頼は大坂周辺65万石を領する一大名へと転落
          した。
           慶長十九年(1614)、方広寺鐘銘事件を契機に徳川氏と豊臣氏の対立は先鋭化し、大坂
          冬の陣へと発展した。豊臣方は関ヶ原の戦いで禄や所領を失った浪人を召し集め、その数は
          10万に上ったといわれる。真田信繁(幸村)ら浪人衆の多くは積極的な攻勢に出ることを訴え
          たが、大野治長ら秀頼側近衆は籠城を主張し、後者が採用された。豊臣方は大坂城周辺に
          多数の砦を配し、防衛線を張った。
           十一月十九日の木津川口の戦いを皮切りに、豊臣方の諸砦は次々と攻め落とされ、大坂
          城内に押し込められていった。他方で、大坂城最大の弱点とされる地続きの南側に信繁が
          設けた真田丸では、挑発に乗せられた前田利常・井伊直孝・松平忠直の軍勢が攻め寄せた
          ものの、多数の犠牲者を出して敗退した。この後、徳川方は積極的な攻勢には出ず、徐々に
          包囲網を狭めつつ、大砲射撃や坑道掘削などによる精神的な消耗を図った。十二月に入る
          と、和平交渉がもたれるようになったが、一説には砲弾が本丸の淀殿居所近くに直撃し侍女
          数名が凄惨な死に方をしたことで、淀殿が恐怖を抱き和議の成立が急がれるようになったと
          いわれる。和議は、同月二十日に締結された。
           その内容の1つに大坂城外堀の埋め立てがあり、徳川方は講和直後から工事を開始した。
          このとき、徳川方は三の丸堀だけでなく、豊臣方の抗議を無視して二の丸堀まで埋め立てた
          とする話が広く流布している。しかし、講和内容には二の丸の破壊も含まれているため、この
          逸話については、現在では否定する向きも強い。ただ、三の丸の破壊は徳川家が、二の丸
          は豊臣家が受け持つとする取り決めがあったとされ、また当時の「破城」は儀礼的に石垣や
          堀の一部を毀すにとどめられるのが通例であったこともあり、こうした点に関連して豊臣家が
          抗議した可能性は考えられる。
           翌慶長二十年(1615)三月、家康は豊臣家に対し、未だ大坂に召し抱えられている浪人衆
          の解雇か大坂からの移封を要求し、両方とも拒絶されると、開戦の準備にかかった。外堀を
          失った大坂方は籠城策を採ることができず、四月二十六日に先制して大和の郡山城を攻撃
          することで、夏の陣の戦端を開いた。豊臣方は緒戦では戦果を収めるものの、圧倒的な戦力
          差を前に徐々に押し込まれ、五月七日の天王寺・岡山の戦いで信繁ら主だった武将が戦死
          すると、大坂落城は時間の問題となった。同日深夜、城内から火の手が上がり、秀頼・淀殿
          母子は山里曲輪で自刃して果て、豊臣家は滅亡した。
           戦後、奥平松平忠明が10万石で大坂藩主に任じられた。忠明は大坂の町の復興に尽力
          したとされ、城については陣屋程度の再建に留められたものと推測される。忠明は元和五年
          (1619)に大和郡山へ加増・転封され、大坂城は幕府預かりとなった。翌六年(1620)より、
          大坂城は徳川家直轄の城として3度にわたり大改修を受け、3代将軍家光の代の寛永五年
          (1628)に完成した。その後、大坂城には譜代大名から定番2名・加番4名、計6名の城代が
          交代制で送られるようになった。天守は、寛文五年(1665)に落雷により焼失し、以後再建
          されることはなかった。
           慶応三年(1866)の王政復古の後、新政府への参画を阻まれた徳川慶喜は、大坂城に
          入って独自に諸外国や新政府内の親徳川派に働きかけを行った。翌年一月に鳥羽・伏見
          の戦いが勃発し、幕府軍がが敗色を強めると、慶喜は供回りを連れて単身江戸へと海路を
          逃れた。主を失った大坂城は新政府軍に占領され、まもなく城内より出火してほとんどの
          建物を焼失した。
           昭和五年(1930)、市民からの募金によって天守の再建工事が始まり、翌年に落成した。
          大林組の施工によるこの復興天守は、豊臣氏時代の外観を想起して作られたが、当時は
          現存天守台が徳川家時代に築かれたものとは知られておらず、徳川天守台に豊臣天守が
          載る奇妙な格好となった。この昭和天守は太平洋戦争の空襲にも耐え、皮肉にも大坂城で
          もっとも長命な天守となっている。


       <手記>
           大坂城は、まっ平らな平地に建てられた城と思われがちですが、上町台地という南北に
          細長い台地の、(旧)淀川に臨む先端に位置しています。北側の大坂城公園駅やビジネス
          パーク、天満橋方面から登城すると、丘陵になっていることが実感できます。
           大坂城本丸は、形状から古墳を利用したものともいわれていますが、確証はありません。
          また、石山本願寺は大坂城二の丸東側付近にあったとする説が今のところ有力で、現在
          推定地には「蓮如上人笠懸の松」の根のみがありますが、これも確たる証拠は見つかって
          いません。石山本願寺推定地には、ほかにも二の丸外堀南側の法円坂とする説もあり、
          ここは難波宮跡公園として、太極殿跡などが確認されています。
           「大坂」の字は明治に入って「大阪」に改められたため、公園や復興天守など明治以降に
          作られたものについては「阪」の字を充てるのが通例となっているようです。今日の大阪城
          天守閣は、上述のとおり江戸時代の天守台の上に、豊臣氏時代のフォルムで建設されて
          います。さらにいえば、豊臣天守は総黒壁であったのに対し、復興天守閣は最上階以外は
          徳川氏の天守の特徴である白壁となっています。戦前の復興ですから仕方ないとしても、
          考証的にみればとても奇妙な天守閣といえます。ですが、戦前に建てられた天守建築が
          現代まで生き残っているということはある意味とても貴重といえ、同じコンクリートの塊でも、
          戦後に乱立した復興天守たちとは、明らかに一線を画す遺物であると思われます。戦前に
          建造されたエレベーター付きの城館というのは、世界広しといえどもこの大阪城とドイツの
          ノイシュヴァンシュタインだけなのではないでしょうか。そんな歴史あるエレベーターに乗れ
          るのかと思いきや、最近リニューアルされたようで、最新式の綺麗なマシンに替わっていて
          ちょっと残念でした。残念といえば、バリアフリーの圧力で天守閣外側にもエレベーターが
          設置されたようで、これが非常に景観を損ねています。
           本丸には天守や櫓、御殿などのメイン的建築は残っていませんが、井戸の覆屋と御金蔵
          が現存していて、とくに御金蔵については、全国で唯一残っているものだそうです。他方で
          天守台の東側には貯水池があり、やはり遺構や景観を損ねています。豊臣時代の天守台
          はちょうどこの貯水池のあたりにあったとされているだけに、余計に残念です。
           本丸への侵入は南北2か所に限られ、このうち北側は極楽橋によって繋がっているのに
          対し、南は土橋となっています。また、本丸堀のうち南辺については空堀となっています。
          実戦では空堀の方が防御力が高いと考えられていたのかなと思うと、たいへん興味深い
          構造です。土橋を渡った先の桜門跡桝形正面には、「蛸石」と呼ばれる巨大な一枚岩が
          据えられています。こうした巨石は、ほかにも京橋口桝形には「肥後石」、大手桝形には
          「見附石」など、主要な桝形に入場者を圧倒するように配置されています。ただ、これらの
          巨石には奥行きはなく、まな板のように薄く加工されているということで、見た目ほど運搬
          に苦労する代物ではなかったようです。
           本丸を取り巻く二の丸には、門や櫓などの建造物がちらほら残存していますが、このうち
          ビジネスパーク側からの入口である青屋門は、空襲で焼け残った部材を利用して再建され
          たものということです。青屋門の反対側に位置する大手門は、江戸城に勝るとも劣らない
          規模壮大なもので、桝形を形成する大手多聞櫓は、多聞櫓としては日本最大だそうです。
          また、二の丸は長大な横矢折れが延々と続く南辺も大きな見どころで、往時はこの屈曲部
          ごとに、一番から七番までの二階櫓が建ち並んでいたそうです。今日では一番と六番の櫓
          のみが残っていますが、そこからかつての壮麗な姿を想像するのも、楽しみの1つといえる
          でしょう。
           近年、二の丸の外側の遺構や、徳川氏大坂城の下に眠る豊臣氏大坂城の遺構の発掘
          調査が進められるようになってきたようです。成果は出ているものの、なかなか検出遺構
          の公開にまでは至っていないようで、今後の調査と整備が期待されます。

           
 本丸北側より極楽橋越しに天守閣を望む。
天守閣と新設エレベーターを下から見上げる。 
 本丸北西から天守閣を望む。
 本丸が台地先端を利用していることが分かると思います。
本丸北側の山里丸から天守閣を見上げる。 
 桜門桝形の蛸石。
本丸に現存する御金蔵。 
 二の丸南辺に連なる横矢折れの石垣。
 中央は六番櫓。
大手桝形を望む。 
左から千貫櫓、大手門、大手多聞櫓。 
 大手門。
大手桝形の見附石。 
 青屋門。
二の丸北西隅の乾櫓。 
 一番櫓。
本丸南辺の空堀。 
 京橋口桝形の肥後石。
天守閣入口下の井戸覆屋。 


BACK