岩瀬山城(いわせやま)
 別称  : 愛宕山城
 分類  : 山城
 築城者: 二階堂氏
 遺構  : 土塁、堀、曲輪
 交通  : JR東北本線須賀川駅徒歩30分


       <沿革>
           須賀川二階堂氏初期の居城とされる。須賀川二階堂氏の前史については複数の
          系図等があり、定説をみていない。一般に、二階堂氏が岩瀬郡に所領を得たのは
          鎌倉時代初期といわれ、岩瀬山城も鎌倉時代中に築かれたとされているが、詳しい
          経緯は不明である。
           文安五年(1448)、須賀川の領主であった二階堂為氏は、須賀川城を築いて居城
          を移した。須賀川築城は、応永六年(1399)ごろに為氏の父行続が行ったものとも
          いわれる。これにより、岩瀬山城は須賀川城の支城ないし詰城となった。
           天正十七年(1589)、伊達政宗が会津の蘆名氏を滅ぼすと、当時の城主で二階堂
          盛義の未亡人であった大乗院(阿南の方)は政宗の伯母にあたることから、政宗は
          降伏勧告を行った。しかし、大乗院はこれを拒絶したため、須賀川城は政宗に攻め
          込まれた。
           同年十月二十六日、須賀川城を舞台に激戦が繰り広げられたが、籠城方の重臣
          守屋筑後守俊重が内応して火を放ったため、ついに落城した。伊達勢は城の北西の
          雨呼口と南西の八幡崎・大黒石口から攻めかけたため、岩瀬山城方面は戦場とは
          ならなかったとみられる。その後の岩瀬山城については定かでない。


       <手記>
           岩瀬山城とは、須賀川市街東側の愛宕山一帯に設けられた城砦群の総称です。
          中心は最高所にあたる愛宕山城で、その南方の南舘や五老山、妙見山にも城館が
          あったとされています。とはいえ愛宕山以外の遺構ははっきりせず南舘は公園に、
          五老山は松明あかしの会場となっています。松明あかしは日本三大火祭の1つで、
          須賀川城攻防戦の戦死者を弔うために行われてきたものだそうです。
           愛宕山山頂には、土塁に囲まれた主郭が良好に残っています。虎口は南東・西・
          北東の3か所に開いていますが、どこまでが当時のものかはわかりません。北東隅
          が櫓台状に張り出しているのが特徴で、このことから戦国時代末期までは使用され
          ていたものと推察されます。また、主郭東側には出郭があり、北東尾根筋には門跡
          や堀跡とみられる地形があります。
           『日本城郭大系』には守谷館として記載されていますが、前出の守屋氏の居館と
          される守谷館は、今日では川向うの妙経寺付近とみられています。また、同書には
          愛宕山城を指して「びわくび館」と称していますが、これに相当するとみられる「枇杷
          ノ首山についても、一般にはやはり川向こうの御隠居岳にあたるとされています。

           
 須賀川神社。
 本殿が乗っているのは土塁跡。
長松院の土塁と堀跡。 
 神炊館神社の堀跡。
同じく神社境内の池。 
堀跡を利用したものか。 
 おまけ:このエレキングを曲がると本丸跡です。


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