須賀川城(すかがわ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 二階堂為氏か
 遺構  : 土塁、堀跡
 交通  : JR東北本線須賀川駅徒歩15分


       <沿革>
           長松院および神炊館神社境内にある須賀川市教委の説明板によれば、文安五年(1448)に
          二階堂為氏によって、岩瀬山城に代わる居城として築かれたとされる。一方、『日本城郭大系』
          では、鎌倉公方・足利満兼の命により足利満直・満貞兄弟がそれぞれ篠川御所稲村御所
          して奥州に下向した応永六年(1399)ごろに、為氏の父・行続が築いたものとしている。
           二階堂氏は周縁に一族や重臣を配して勢力を拡大したが、戦国大名化は不十分であったと
          みられる。16世紀半ばの二階堂輝行(照行)の頃には、「わずかに五十余郷を領す」と評される
          状態であった。輝行の子盛義は、永禄九年(1566)についに会津の蘆名盛氏に従属し、嫡男・
          盛隆を人質に差し出した。盛隆は、後に盛氏の養子となって蘆名氏の家督を継いでいる。
           二階堂氏は盛義の次男の行親が継いだが、天正十年(1582)に早世すると、盛義未亡人で
          伊達輝宗の姉である大乗院(阿南の方)が城主となり、家老の須田盛秀が実務を代行した。
           天正十七年(1589)六月に蘆名氏が伊達政宗によって滅ぼされると、政宗は伯母の大乗院に
          降伏を勧告したものの、大乗院はこれを拒絶した。しかしながら、家中は親伊達派と反伊達派
          (親佐竹派)で分裂しており、保土原行藤をはじめとする重臣層の裏切りにより、同年十月に
          須賀川城は伊達軍に包囲された。十月二十六日未明に総攻撃が行われ、城方は佐竹氏や
          岩城氏の援軍も得ていたものの、雨呼口の守屋筑後守俊重が内応したことにより城中に火が
          放たれ、須賀川城はあえなく落城した。
           城は大乗院の弟にあたる石川昭光に与えられた。しかし、翌天正十八年(1590)の小田原の
          役に参陣しなかったことから、独立勢力として豊臣秀吉に改易された。代わって、蒲生氏郷が
          会津に入封し、家臣の田丸直昌が3万石で須賀川城主となった。直昌は後に三春城、ついで
          守山城の城主に転じているが、この間の須賀川城の扱いについては定かでない。
           慶長三年(1598)に上杉景勝が会津領主となると、千坂景親や二本松右京が城代を務めた
          とされる。関ヶ原の戦い後に蒲生秀行が会津藩主に返り咲くと、重臣・蒲生郷成が須賀川城に
          入った。寛永四年(1627)に蒲生家が伊予松山藩へ減転封となり、代わって加藤嘉明が会津
          藩主となった。その際に、須賀川城は廃城となった。
           ちなみに、日本三大火祭の1つに数えられる松明あかしは、伊達氏との須賀川城攻防戦に
          おける戦死者を弔うために行われていたものとされる。


       <手記>
           市役所以北の市街地中心部が、おおよその須賀川城主城域にあたります。江戸時代には
          奥州街道の宿場として栄えたため、城の遺構はほとんど残っていません。二階堂神社周辺が
          本丸跡で、本殿は土塁の一部の上に建っています。
           また、長松院と神炊館神社の境内にも、堀と土塁が残存しています。とくに長松院の遺構は
          比較的状態がよく、見ごたえがあります。とはいえ戦国大名クラスの居城としては、少々寂しい
          感じもありますね。昨今の須賀川市はウルトラマンの街として売り出しているので、街中散策は
          それなりに楽しめる感じです。

           
 須賀川神社。
 本殿が乗っているのは土塁跡。
長松院の土塁と堀跡。 
 神炊館神社の堀跡。
同じく神社境内の池。 
堀跡を利用したものか。 
 おまけ:このエレキングを曲がると本丸跡です。


BACK