祖母井城(うばがい)
 別称  : 平松城
 分類  : 山城
 築城者: 祖母井之重
 遺構  : 石積み、土塁、堀、曲輪
 交通  : JR予讃線春賀駅徒歩20分


       <沿革>
           天文年間(1532〜55)に、伊予宇都宮氏家臣祖母井之重によって築かれたとされる。
          祖母井氏は、下野国の宇都宮宗家に仕えた千葉氏流大須賀党君島氏の庶流にみえる
          同国芳賀郡祖母井郷の祖母井氏の一族とみられるが、之重以前の系譜は定かでない。
          一方、之重の主君の伊予宇都宮氏は宗家から直接分かれたわけではなく、分家の豊前
          宇都宮氏(城井氏)の分流である。
           築城の際、之重は飲料水が得られず移転を考えたものの、土地の老婆が湧水の場所
          を教えた。そのため、その泉を祖母井と名付けて城名や名字としたとする伝説がある。
          ただし、上述のとおり祖母井氏は既存の一族と推測されるため、事実とは考えにくい。
           天正十三年(1585)七月、菅田の宇津城主大野直守(直光とも)が祖母井城に夜襲を
          かけ、城主祖母井之照は討ち死にした。このとき之照は死に臨んで愛馬の首を刎ねた
          といわれ、以後之照の命日には主人の霊を乗せた首なし馬が走るという伝承が残る。
          この天正十三年七月は豊臣秀吉による四国攻めのさなかであり、伊予宇都宮氏は菅田
          城主大野直之の下克上によってすでに滅んでいた。直之は河野氏重臣で大除城主の
          大野直昌の弟であるが、直守との関係は定かでない。そのため、祖母井氏滅亡の経緯
          についても詳らかではない。
           同月中に秀吉によって四国は平定され、祖母井城もそのまま廃城となったものと推察
          される。


       <手記>
           祖母井城は、肱川に向かって突き出た峰のピークの1つを利用した城です。川に近い
          先端側の方が要害性が高そうにもかかわらず、このピークが取り立てられているのは、
          おそらく当時の街道が、その東側の現在トンネルがある細い頸部の峠を越えていたから
          と推測されます。
           城跡へ行くには、南東麓の西念寺門前から西に入る山道を進みます。心細くなる細道
          ですが、そのまま登りきって下りに差し掛かったところに山へ分け入る道への分岐点が
          あります。脇に1台分程度のスペースがあるので、車でもここまでは大丈夫そうです。
           あとは道なりにどんどん登っていくと、主城域の下で峠になります。峠を越えたところで
          右手を見ると、奥にうっすら石塁が望めるはずです。道はここで城から離れて下っていき、
          その先で石塁の下に回り込む道とつながっているようなのですが、かなり遠回りなので
          このあたりで直接山肌に取り付いてしまうのがベターです。
           城は山頂の主郭と、三方の尾根筋に数段の腰曲輪を従えた構造をしています。単純
          な縄張りですが、北西方向の尾根に少なくとも1本、南方向の尾根に2本の堀切が認め
          られ、一部は竪堀も付随しています。石塁は、もっとよく探せば他にもあったのかもしれ
          ませんが、とにかく城内は倒木が酷くて踏査の自由度は限られています。
           規模としては小さくもなく、さりとて大きくもなくといった感じですが、宇都宮氏の居城
          地蔵ヶ獄城(大洲城)の外郭としては決定的に重要な位置にあり、祖母井氏が重臣と
          して重要視されていたことがうかがえます。

 祖母井城跡を望む(中央奥のピーク)。
石塁を見上げる。 
 主郭のようす。
主郭西辺の土塁。 
 同上。
主郭南端の櫓台状の頂部。 
 北西尾根の腰曲輪。
北西尾根の堀切。 
 北東尾根の腰曲輪
堀跡か。 
 同上。
南尾根の竪堀。 
 南尾根の堀切。


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