泉妙見山城(いずみみょうけんやま) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 泉胤顕か | |
遺構 : 堀、土塁、虎口 | |
交通 : JR常磐線・東武野田線柏駅よりバス 「泉」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 相馬胤村の一子五郎胤顕は、相馬郡泉村を領して泉氏を名乗った。胤顕の兄弟 には、奥州相馬氏の祖となった師胤や下総相馬氏の祖となった胤氏がいる。泉城 はこの泉氏によって築かれたといわれているが、確証はない。 元亨三年(1323)、胤顕の子胤盛とその子胤康は、師胤の子重胤の奥州下向に 従って行方郡岡田村へ移住し、以後岡田氏を称した。その後の泉村については、 胤康の譲状が残っているものの、実際の支配状況は詳らかでない。 <手記> 泉妙見山城は、泉集落の中心から北西に細く伸びる舌状台地の先端に位置して います。土塁ないし櫓台跡と思われる高まりの上に妙見社があり、神社の標柱の 説明に、城についても触れられています。 『日本城郭大系』の泉城の項では、妙見山城と南東の泉城をひっくるめて1つの 城と考えているようです。ですが、それだととんでもなく巨大な城となってしまうため、 両者は別個の城と考えるのが普通でしょう。妙見山城のある小字中城については、 3つの曲輪が確認できるとあります。私の見たところ、妙見社の建つ土塁を曲輪と みれば、その付け根側にもう1郭までは認められます。残る1つについては、周辺が 宅地化されていることもあり、分かりませんでした。 付け根側の曲輪についても、宅地が迫っているため全体像がはっきりしませんが、 虎口様地形が2ヶ所認められます。そのうち1ヵ所は麓へ獣道が続いており、大手で あった可能性も考えられます。すなわちここが城の最後尾とすると、『大系』がいう ような規模壮大な「完成された城」などではなく、一在地領主の詰城程度のもので あったものと推測されます。 ちなみに、『大系』の泉城の項には「北東」と「東北」という語が各1回出てきます が、いずれも北西の誤りであると思われます。 |
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泉妙見社標柱。 妙見山城についても触れられています。 |
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妙見社の建つ土塁ないし櫓台。 右手は堀跡。 |
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付け根側の曲輪の土塁。 | |
同上。中央から右手は虎口跡か。 | |
同じ曲輪のもう1か所の虎口跡。 |