下田城(しもだ) | |
別称 : 鵜島城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 後北条氏か | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁 | |
交通 : 伊豆急行伊豆急下田駅徒歩20分 | |
<沿革> 築城年代は詳らかでない。玉縄十八人衆の1人で北条氏勝に次ぐ序列の朝比奈 孫太郎が城将を務めたとされることから、天正十〜十六年(1582〜1588)ごろには 存在していたものと推測される。また、南北朝時代にはすでに築かれていたとする 説もある。 天正十六年(1588)、豊臣秀吉との関係が緊張を帯びてくるなかで、北条氏直は 海路の防衛拠点として下田城を取り立て、重臣清水康英を新たな城将として改修 を命じた。 天正十八年(1590)に小田原の役が始まると、下田城には九鬼嘉隆や長宗我部 元親、加藤嘉明、脇坂安治ら1万を超える水軍が来襲した。対する城方は、康英の ほか伊豆雲見上ノ山城主高橋丹波守氏高、小田原からの援軍江戸朝忠、検使の 高橋郷左衛門尉らが詰めていたが、それでも600ほどの兵力しかなかった。しかし ながら、城兵は康英の指揮のもと奮戦し、50日余にわたって耐え忍んだ。とはいえ 圧倒的な兵力差を覆すことはできず、同年四月二十三日に開城降伏した。 役後に徳川家康が後北条氏領へ移封となると、下田城には戸田忠次が5000石 で入城した。慶長六年(1601)、忠次の子尊次が故地の三河国田原へ移されると、 下田城は廃城となった。 <手記> 下田港に臨んで突き出た岬の山が下田城址で、城跡は下田公園として整備され ています。公園の入口は、南側の下田海中水族館駐車場向かいか、北側の開国 記念広場にあります。 下田城の特徴は、曲輪が山の稜線のままに形成されていてとても細長く、その 外側の堀の方により面積と工事量が割かれている点にあります。これはおそらく、 主眼が水軍城として港の防衛に置かれ、土塁線で下田港の湾口を墨守する構想 であったものと考えられます。湾口に向かって東に延びる支尾根にも曲輪は展開 していますが、やはり脇の横堀にウェイトが置かれているようすがうかがえます。 頂部を主郭とすると、その南方に堀切で切断された曲輪がもう2つあり、ここでは 便宜上、北から主郭・U曲輪・V曲輪とします。下田城の堀は全体的に畝が設け られていたとみられ、主郭西側下の空堀に今も仕切りの畝が残っています。 U曲輪の上には電波塔ないし水道施設があり、V曲輪は藪化していて登るのは 少々困難です。V曲輪の南方にはお茶ヶ崎という展望台があり、出丸跡とされて います。 全体的に見て、下田城は在地領主が統治目的で城砦を築くにはあまり合理性が 見出せず、つとめて水軍にしか用のない城のように感じました。南北朝時代にこの 地域に城があったという記述が史料にみられたとしても、それは今日の下田城跡の 場所とは異なるのではないかと思われます。 |
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U曲輪西側の空堀。 | |
同上。 | |
主郭西側の空堀。 | |
主郭西側の空堀の畝跡。 | |
主郭北端の最頂部。 | |
主郭南端方面を望む。 | |
主郭とU曲輪の間の切通し。 堀切跡か。 |
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U曲輪のようす。 | |
U曲輪南西側の堀跡。 | |
U曲輪とV曲輪の間の堀切。 | |
V曲輪東側の空堀。 | |
V曲輪南側の堀切。 | |
お茶ヶ崎。 | |
東側支尾根の横堀。 | |
東側支尾根の段差。 曲輪形成に伴うものか。 |
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北側中腹の開国記念広場。 館施設の跡か。 |
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主郭北側の腰曲輪。 | |
主郭北西側の竪堀状地形。 | |
下田城跡から下田港(下田湾)を望む。 |