戸倉城(とくら)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 北条氏綱ないし今川氏
 遺構  : 曲輪跡、堀、土塁
 交通  : JR東海道線・御殿場線沼津駅よりバス
       「水神道」バス停下車徒歩15分


       <沿革>
           龍泉寺の寺伝によれば、文明年間(1469〜87)に今川氏によって築かれたとされる。
          他方、現地説明版には、典拠は不明だが北条氏綱が築いたとある。氏綱が築城主と
          すると、家督を継承した永正十五年(1518)以後のことと考えられる。
           駿豆国境を守る要衝の城であるが、戸倉城が脚光を浴びるのは、永禄十一年(1568)
          に武田信玄が駿河へ侵攻してからのことである。すなわち、信玄が一方的に今川氏真
          との同盟を破棄し、これに憤った北条氏政が今川氏支援に回ったため、戸倉城周辺は
          北条v.s.武田の主戦場となった。戸倉城も攻撃を受けたようであるが、城主北条氏光は
          韮山城と連携して撃退したとされる。このときの城主を北条氏尭とする資料もあるが、
          これは長らく氏尭と氏光が同一人物とみられてきたためで、近年では氏尭を氏康の弟、
          氏光を氏康の八男ないし九男とする説が有力である。
           元亀三年(1572)に再締結された甲相同盟は、武田勝頼の代の天正七年(1579)に
          再び破綻した。これにより、戸倉城は再び前線となり、笠原政尭(北条家家老松田憲秀
          の子で同重臣笠原康勝の養子)が城主に据えられた。
           天正九年(1581)、政尭は三枚橋城主曾根昌長の調略を受け、武田氏に寝返った。
          政尭は、同年の手白山合戦で義弟(康勝の実子)笠原照重を戦死させた。しかし、翌
          十年(1582)の織田信長による武田攻めによって武田氏は滅亡し、戸倉城も北条氏の
          手に帰した。政尭は浪人となったが、後に父の取り成しによって北条家に帰参した。
           天正十八年(1590)の小田原の役に際して、現地説明板によれば、戸倉城の守備兵
          は城を捨てて韮山城へ退いたとされる。城将など詳細は不明だが、おそらく大した戦闘
          もなく城は豊臣勢に接収されたものと推測される。同役の終結とともに、廃城となった
          ものと思われる。


       <手記>
           戸倉城は、伊豆国最大の河川狩野川の下流に位置し、三方を川に囲まれた独立山
          という地の利に築かれています。現在、城跡は本城山公園として整備されています。
          車で訪れる場合には、北麓に駐車場も完備されています。
           遺構は、東西に並んだ3つの峰にまたがっています。このうち、きちんと公園化されて
          いるのは、東端の主郭周辺のみです。とはいっても、逆に自然公園として整備され過ぎ
          ているため、主郭の遺構ははっきりしません。南辺に、現地説明板で見張台跡とされる
          天狗岩があります。南西へ下る園路脇には、二重の堀跡と思しき切れ込みがあります。
          現地説明板では、いくつもの曲輪を階段状に従えた縄張りが記されていますが、私が
          見たところ、そこまで規模の大きな城にまでは仕上げられていないように感じます。
           主郭エリアでこのほかに確実に曲輪跡と思われるものは、東側の尾根筋に1つだけ
          あります。北東麓の駐車場へ下りる園路の途中、道標脇でほぼ直角に道が折れる所
          で尾根上に無理やりよじ登ったところにあります。この曲輪には切岸の加工がみられ、
          前後には堀もあります。頂上側の堀は堀り切らずに切れ込みになっており、あるいは
          虎口になっていたとも考えられます。この曲輪には、土塁の痕跡のような盛り上がりが
          みられ、もし土塁跡とすれば、城内で唯一のものと思われます。
           主郭のある本城山の南麓には、川との間に龍泉寺があり、かつての城主居館とされ
          ています。主郭から寺へ下りる尾根道の途中には、歴代住職のものと思われる墓地が
          あります。ちょうど尾根筋の曲輪を設けるにはもってこいのところですので、これも曲輪
          の跡でしょう。
           本城山とひとつ西の峰との間は、深く切れ込んだ谷で断絶されています。その鞍部
          に小さなお堂があるのですが、これが曲輪跡なのか、また谷が人工的に削られたもの
          であるのかは判然としません。この峰の頂上には、八坂神社が祀られているとのこと
          なのですが、立ち入り禁止のフェンスとともに、深い藪に覆われていて到達できません
          でした。一応、八坂神社の峰と西端の峰との鞍部へは、北麓のこどもの城と呼ばれる
          広場から登ることができます。縄張り図によれば、八坂神社周辺には堀切や喰い違い
          の竪堀が残っているとのことです。
           西端の峰へは、これまた尾根伝いには到達することが困難です。南西麓の八幡神社
          裏手から登ることができます。『静岡の山城ベスト50を歩く』では、この西峰が曲輪形成
          されているかどうか疑問視していますが、堀はないものの明確に3段ほどに削平されて
          おり、やはり城域に含まれていたものと考えています。加えて、八幡神社境内の周縁
          はわずかながら溝と段差に囲まれており、ここにも城に関連する何らかの施設があった
          のではないかと推測しています。
           現地説明板では、八幡神社から県道を挟んだ西側に池があり、その向こうに聳える
          烏帽子岳の中腹まで曲輪が連なっていたとしています。一応、そちらの方も歩きました
          が、今では住宅地とその裏山の藪となっており、確認は困難です。ただ、県道と川に
          挟まれた小さな水神様の祀られた丘は、やはり何らかの形で城の機能の一部を担って
          いたのではないかと推測されます。
           全体の感想として、やはり現地説明板にあるような巨城というより、『静岡の山城』に
          あるような「拠点城郭としての構造をなしていない」という印象の方が強いです。とくに、
          正真正銘伊豆の中核城である韮山城と比べると、その規模の小ささや縄張りの単純さ
          が目立ちます。
           おそらく、戸倉城の第一の役割は駿豆国境の監視にあったものと思われます。さらに
          いうと、おそらく今の県道139号線に相当する、沼津から伊豆へと入る旧街道があり、
          それを烏帽子岳と挟んでチェックする関所としての機能が、八幡神社や水神様のあたり
          を中心に設けられていたのではないかと考えています。
           余談ですが、本城山公園の北麓には、前掲のとおり「こどもの城」と呼ばれるアスレ
          チックがあります。小さいながらも、門や疑似石垣などを備えており、なかなか実戦的
          で面白そうな施設です。さすがに、大人にはサイズが小さすぎて遊べそうにないのが
          残念でした(笑)。

           
 主郭の説明板。
主郭のようす。 
 見張台とされる天狗岩。
主郭西側、二重堀跡か。 
 主郭東尾根筋の曲輪の切岸。
同曲輪の土塁の痕跡様の盛り上がり。 
 同曲輪主郭側の堀。
 虎口跡か。
同曲輪尾根先側の堀。 
 八幡神社境内の溝と段差。
八幡神社裏山(西端の峰)の削平地。 
 同じく階段状削平地。
居館址とされる龍泉寺。 
 龍泉寺脇の尾根筋の墓地。
 曲輪跡か。
県道脇の水神様。 
 北麓のこどもの城。


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