韮山城(にらやま) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 外山豊前守か | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、堀、土橋 | |
交通 : 伊豆箱根鉄道駿豆線韮山駅徒歩10分 | |
<沿革> 文明年間(1469〜86)に、堀越公方足利政知の家臣外山豊前守が築いたとされるが、築城の経緯 については判然としない。延徳三年(1491)に政知が没すると、長男の茶々丸は異母弟の潤童子と その生母を殺害して家督を継承した。明応二年(1493)、駿河の今川家の客将で興国寺城主の伊勢 盛時(北条早雲)が伊豆へ攻め入り、茶々丸を堀越御所から追い落とした。従来この「伊豆討入り」 は、茶々丸が非道をはたらいて家臣領民の支持を失ったのを好機として、早雲が下克上の第一歩を 踏み出したものとされてきた。しかし、近年では早雲は素浪人などではなく幕府の直臣であり、同年 に将軍となった潤童子の同母兄義遐(後の義澄)の意向を受けて、茶々丸討伐が公然と行われたと する見方が主流となっている。また、巷説では茶々丸は討入りの際に自害したとされているが、実際 には同七年(1498)まで抵抗を続けていたものとみられている。 いずれにせよ、明応二年に伊豆北部を手中に収めた早雲は、韮山城を新たな居城として改修した。 相模へ侵攻して小田原城を奪取した後も、嫡男氏綱を小田原に入れ、自身は終生韮山を居城とした。 宗瑞死後も、韮山城は伊豆国の中心地として機能した。永禄十二年(1569)に武田信玄が駿東から 伊豆へ侵攻した際には、北条氏康の五男氏規が城主を務め、武田勢を撃退した。その後は、滝山城 の氏照や鉢形城の氏邦らとともに、北条氏の経略ネットワークの1つとして伊豆衆を形成した。 中央で勢力を確立した豊臣秀吉との間で緊張が高まると、韮山城は伊豆の対豊臣防衛拠点として、 天正十七年(1589)頃から大規模な改修を受けた。また、土手和田や背後の険と恃む天ヶ岳にも砦塁 が築かれた。 北条氏の戦略は箱根の山中城や足柄で豊臣勢を足止めし、その間に韮山の伊豆勢が三島の兵站 線を切るというものであった。ところが、翌天正十八年(1590)に来襲した豊臣軍は、4万4千の大軍で 韮山城を包囲した。豊臣勢は、周囲に陣城や土塁等をめぐらして完全に城を囲い、万全の状態で攻城 にあたった。対する城兵は3600余という大差であったが、氏規の指揮のもと攻防戦を繰り返しつつ、 約3か月にわたって持ちこたえた。 攻城側の1人徳川家康の開城勧告によって、六月二十四日に氏規は城を開いた。小田原城も、それ からまもない七月五日に開城し、関東の大大名北条氏は滅んだ。 北条氏の旧領は家康に与えられ、韮山には内藤信成が1万石で入封した。信成は慶長六年(1601) に駿府へ転封となり、これによって韮山城は廃城とされた。 <手記> 韮山城は、天ヶ岳の先端にある半独立丘に築かれた城です。比高はさほどないのですが、北を除く 三方はほとんど崖に近い急斜面で、守るに易く攻めるに難い堅城ぶりが容易に見てとれます。早雲の 居城、あるいは小田原の役の激戦地として知られる韮山城ですが、土塁や堀が良好に残るものの、 案内や碑などはまったくなく残念でした。隣接する江川邸が、大河ドラマ『篤姫』のロケに使われたとか で沸いているのとあまりに対照的でした。 城は、山頂の主郭を中心に南北に細長い構造をしていて、傾斜の緩い北側を中心に複数の大きな 曲輪が続いています。南側には、不自然な形状に折れた土塁が残る曲輪が1つあるのですが、もしか したら櫓台だったのではないかとも考えられます。 城山からは、麓の田方平野や富士山はもちろん、箱根の山々まで眺望が開けています。小田原の 役の際には、山中落城の戦火も遠く望めたかもしれません。また、城の西側には近くには、源頼朝が 流された蛭ヶ小島跡とされる史跡公園や北条政子の実家北条氏館跡、堀越公方の堀越御所跡など もあります。 このように、由緒・眺望・遺構・観光立地ともに優れた城跡ですから、ぜひ今後整備を進めてもらい たいものです。 |
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蛭ヶ小島跡から韮山城址を望む。 | |
主郭のようす。 | |
南端の曲輪の不自然な土塁。櫓台跡か。 | |
二曲輪の堀と土橋。 | |
本城から居館跡(韮山高校)と富士山方面を望む。 |