神宮寺城(じんぐうじ)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 北畠親房ないし東条氏
 遺構  : 曲輪跡、土塁、堀、土橋、虎口
 交通  : JR成田線佐原駅よりバス
       「中神」バス停下車徒歩15分


       <沿革>
           延元三/暦応元年(1338)、勢力挽回を図った南朝の北畠親房は、義良・宗良両親王を奉じて
          伊勢国大湊から海路奥州を目指した。しかし、途中暴風雨に遭って両親王とは離れ離れになって
          しまい、親房一行は常陸国東条浦(茨城県旧桜川村)に漂着した。親房はそこで南朝方の武士を
          募り、東条浦周辺を治めていた土豪東条氏に迎えられて神宮寺城に入城した。『日本城郭大系』
          では築城者を東条氏としているが、親房以前から城館が営まれていたのか、親房のために新たに
          築かれたものであるかは不明である。
           同年十月、神宮寺城は北朝方の佐竹義篤らに攻められ落城した。親房の入城からわずかひと月
          ほどのことであった。このとき、親房に味方した周辺領主14名が捕えられ、斬首された。神宮寺城
          北東の神宮寺には、彼らの供養塚である十三塚がある。
           親房は阿波崎城に移って抵抗を続けた。神宮寺城のその後は不明である。

       <手記>
           神宮寺城は、周囲を谷戸に囲まれた舌状の台地上に位置しています。歴史に現れるのはわずか
          1ヵ月ほどですが、南朝の中心北畠親房が拠り、南北朝合戦の激戦地の1つとなったことから、案内 
          や説明等はわりと行き届いています。
           遺構もよく残っており、主郭周囲の堀と土塁を中心に、土橋や虎口まで明瞭に見受けられます。
          曲輪のようすがはっきりしているのは主郭のみですが、その周囲にも土塁や堀が伸びているように
          みえるため、おそらくほかにも曲輪があったものと推測されます。
           神宮寺城の特徴というか不思議なのは、せっかく舌状の丘陵に選地しているのに、主城域がその
          内まったところに周囲を土塁と堀で囲まれた空間として形成されていること点です。これではせっかく
          の地形を殺すようなものです。南北朝時代という、城郭技術の未発達の時代であるということを加味
          しても、特異に感じられます。
           ところで、神宮寺城から谷を挟んだ北東には、地名・城名の由来となったと思われる天台宗神宮寺
          があります。私見ですが、神宮寺はもともと現在の神宮寺城址にあり、神宮寺城は寺院を城に取り
          立てたものではないでしょうか。そう考えると、城館地形をまったく生かしていない縄張りや、土塁と
          堀に囲まれたスペースが突然地続きに現れる謎もすっきり解けます。また、親房が移った阿波崎城
          の本丸も、同様に土塁に四角く囲繞されたスペースであり、こちらも同様に寺院を取り立てたものと
          考えると、論理的整合性や一貫性ももたせることができるように思われます。

           
 主郭北面の入口。土橋はあれども虎口がありません。
 当時の入口であったかは何ともいえません。
 土橋は後世に作られたものかもしれません。
主郭北東隅の堀と土塁。 
 主郭のようす。左手から奥に向かって土塁が続いています。
主郭南側の虎口。 
 主郭南側虎口外側の土橋と堀。


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