阿波崎城(あばさき)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 北畠親房
 遺構  : 曲輪跡、堀跡
 交通  : JR成田線佐原駅よりバス
       「中神」バス停下車徒歩15分


       <沿革>
           延元三/暦応元年(1338)、勢力挽回を図った南朝の北畠親房は、義良・宗良両親王を奉じて
          伊勢国大湊から海路奥州を目指した。しかし、途中暴風雨に遭って両親王とは離れ離れになって
          しまい、親房一行は常陸国東条浦(茨城県旧桜川村)に漂着した。親房はそこで南朝方の武士を
          募り、神宮寺城に入城した。まもなく北朝方の佐竹氏らに攻められ、敗れて阿波崎城へと移った。
          阿波崎城が既に存在していた城なのか、このときに築かれたものなのかは不明である。
           親房は、阿波崎城で南朝方の後詰を待ちながら抵抗を続けたが、ほどなく落城した。親房らは、
          霞ケ浦を渡って小田城の小田氏を頼った。阿波崎城はそのまま廃城となったものと思われるが、
          詳細は不明である。

       <手記>
           阿波崎城は、野田奈川と新利根川に挟まれた丘陵の先端に位置しています。当時は、おそらく
          霞ケ浦由来の低湿地に周囲を囲まれていたものと推測されます。
           現在、本丸は霞南ゴルフクラブの敷地となっており、外丸および八幡台と呼ばれる先端部のみが
          残っています。『日本城郭大系』が編纂された頃は、まだ本丸も残っていたようで、逆凸状に土塁
          に囲まれた本丸のようすが描かれています。北東の登り口脇には説明板が、外丸跡には城址碑
          が建てられています。
           石碑のすぐ近くに神社があり、周辺は削平され曲輪を形成しています。ここから先端部を望むと、
          両岸が切岸状に切り立っています。おそらく物見台のような場所であったと思われますが、頂部は
          非常に細く、大勢の駐屯は不可能です。神社のある曲輪と外丸の間には堀跡が見受けられます。
          外丸はやや面積のある曲輪ですが、その西側からすでにゴルフ場となっているため、それ以上の
          縄張りについては不明です。
           このように、現在目にできる阿波崎城址は、東側3分の1程度の範囲になります。しかし、部分的
          とはいえ今残る遺構と縄張りからでも、阿波崎城が北畠親房の撤退後は使用されなかったのでは
          ないかという点が読み取れるます。残っている箇所の曲輪形成は未熟であり、『大系』の縄張り図
          にみえる本丸は、戦国時代の城のセオリーからするとやや不自然です。さらに突っ込んでいうと、
          神宮寺城についてもそうなのですが、私は既にあった寺院を取り立てて陣城化したものなのでは
          ないかと推測しています。土塁に囲繞された寺院敷地を本丸とし、丘陵先端部に手を加えて城塞
          化したもの。それが阿波崎城なのではないかと考えています。

           
 阿波崎城址碑。
城址碑と神社のある曲輪のようす。 
 神社のある曲輪と外丸の間の堀跡。
外丸のようす。 
 神社のある曲輪から先端部を望む。
阿波崎城址から北方を望む。 
奥にかすかに霞ヶ浦が見えます。 
当時は眼下の水田地帯も水域であったと思われます。 


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