上条城(じょうじょう) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 上条清方か | |
遺構 : 曲輪、土塁 | |
交通 : 北陸自動車道柏崎ICから車で15分 | |
<沿革> 山内上杉氏の分流・上条氏(上条上杉氏)の居城である。上条氏は、14世紀末から15世紀初頭の 越後守護上杉房方の子清方に始まる。上条城も清方によって築かれたとみられるが、確証はない。 清方は、永享十年(1438)の永享の乱を機に隠棲した兄憲実に代わり、関東管領職と山内上杉氏 の家督を代行した。文安元年(1444)に清方が没すると、両職は憲実の子憲忠が継ぎ、清方の一子 房定は越後守護家を、もう一人の子房実が上条氏を継承した。また、房定の子の顕定も関東管領と なっている。 房実の子(異説あり)定実は、房定の子の上杉房能を攻め滅ぼした守護代・長尾為景に擁立され、 越後守護となった。上条氏は定実の弟定憲が継いだが、定憲は為景と敵対したため、定実とも対立 した。永正十年(1513)に定実が為景に対して兵を挙げると、琵琶島城主宇佐美房忠らと呼応したが 敗れている。 享禄三年(1530)、定憲は単独で反乱を起こしたが、揚北衆らの協力を得た為景に上条城を攻撃 され、幕府の仲介を受けて翌年に鉾を収めた(上条の乱)。その後も越後国内では為景への不満が 蓄積していったが、天文五年(1536)に定憲が再々度反旗を翻すと、今度は揚北衆や上田長尾氏、 さらには会津の蘆名氏や出羽の砂越氏なども上条氏を支持した。定憲方は、三分一ヶ原の戦いで 敗れたものの、ついに為景を隠居に追い込むことに成功した。 定憲は間もなく没したとみられており、元亀二年(1571)に上杉謙信(為景の子)の命で上条政繁 が名跡を継ぐまでの上条氏の動静は詳らかでない。定憲の兄弟として定明・頼房・定兼といった名が みられるほか、栖吉長尾氏の長尾景信が継承したとする説もあるが、いずれも確証はない。 政繁は、能登の戦国大名畠山義続の子義春と同一人物といわれるが、近年は別人説も呈されて いる。別人説では、政繁は八条上杉家の上杉定実の子で、義春を養子としたとされる。 天正十四年(1586)、政繁は上杉家を出奔して豊臣秀吉の直臣となった。義春別人説では、義春 も後を追ったとされる。義春の子も相次いで上杉家を離れ、これにより上条城も廃城となったものと 推測される。なお、義春の次男長員は江戸時代の高家上杉家(上条上杉氏)、三男義真は同じく 高家畠山家(能登畠山氏)の祖となっている。 <手記> 上から読んでも「じょうじょうじょう」、下から読んでも「じょうじょうじょう」。そんな冗長な冗談はさて おいて、鵜川沿いの小高い独立丘が上条城跡です。東麓と北西麓に登城口があり、東口には駐車 スペースがあります。ただ、東口を上がると主郭のど真ん中に出るので、こちらは後世に開かれた 登城路と思われます。 大きく頂部の主郭と西側の二の郭から成っていますが、両者の間は切岸というより段差に近く、 あまり防備を意識しているとはいえません。西方の長泉寺裏手の山上には黒滝城があったとされ、 これを詰城として、上条城はつとめて平時の館城であったものと推察されます。 |
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東から上条城跡を望む。 | |
東麓の登城口。 | |
主郭と城址碑。 | |
主郭のようす。 | |
主郭と二の郭の間の切岸。 | |
同上。 | |
二の郭のようす。 | |
二の郭背後の切岸。 | |
同上。 |