琵琶島城(びわじま)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 宇佐美氏か
 遺構  : なし
 交通  : JR越後線・信越本線柏崎駅徒歩20分


       <沿革>
           南北朝時代前期に、上杉憲顕が越後守護職に任じられた際、伊豆の宇佐美氏がこれに従って
          入国し、琵琶島城を築いて拠ったと推測されているが確証はない。『梅花無尽蔵』には、長享二年
          (1488)に万里集九が柏崎の宇佐美孝忠を訪ねて鑑湖詩を贈ったことが記述されており、このころ
          までにはなんらかの城館が築かれていたものと思われる。
           永正十一年(1514)、孝忠の子ないし同一人物とされる宇佐美房忠は、越後守護代・長尾為景を
          討つべく挙兵した越後守護の上杉定実に同調したが、岩手城で討ち死にした。房忠の子定満は、
          一般的に引き続き琵琶島城を居城としたとされるが、城を失ったとする異説もある。すなわち、永禄
          二年(1559)の『諸国衆御太刀之次第』に見られる「琵琶島殿」、ならびに『天正五年上杉家家中
          名字尽』にある「琵琶島弥七郎」を宇佐美氏に代わる琵琶島城主とするものである。ただ、弥七郎
          は房忠の名乗りでもあるため、宇佐美氏をして琵琶島と称した可能性も否定できない。
           江戸時代の『北越軍記』において、上杉謙信の軍師・宇佐美定行が改名して定満と称したとされ
          ている。しかし、宇佐美定行の名乗りは一次史料では確認できず、軍師としての活躍も今日では
          創作とみられている。坂戸城主・長尾政景を排除するため舟遊びに誘い、野尻湖で共に溺死した
          とする説も人口に膾炙しているが、やはり史料上の裏付けはない。
           いずれにせよ、政景の死後に定満の動静も途絶え、宇佐美氏も没落したとみられている。天正
          六年(1578)の御館の乱時点では、前島修理亮が琵琶島城主を務めていた。修理亮は景虎方に
          属し、船で御館に物資を輸送しようと試みたが、景勝方の旗持城将佐野清左衛門尉に攻められて
          降伏した。
           天正十二年(1584)には、乱での恩賞を兼ねて桐沢但馬守具繁が城主となった。慶長三年(15
          98)に上杉家が会津へ転封となるに及んで、廃城となったと推測される。


       <手記>
           琵琶島城は鵜川の屈曲部を利用した平城で、柏崎湊の水運にかかわる重要な拠点であったと
          みられています。県立柏崎総合高校の敷地内が本丸跡で、敷地内には石碑や説明板が置かれ
          北側の道路から訪ねることができます。河川改修により鵜川の流れも大きく変えられ、かつては
          土塁が残っていたそうですが、今では遺構はありません。
           高校の北東には東曲輪橋が架かっていて、そこから北側の鵜川支流はかつての鵜川本流で、
          当時は東曲輪(二の丸)と金曲輪(三の丸)の間の堀を兼ねていたようです。そう考えると、今は
          静かな小川となっているこの部分が、数少ない城のよすがといえるでしょう。

           
 枇杷島城址碑。
同上。 
 堀を兼ねていた鵜川の旧流路。
東曲輪橋。 


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