野田城(のだ) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 浦上村宗 | |
遺構 : なし | |
交通 : JR大阪環状線野田駅または地下鉄玉川駅徒歩5分 | |
<沿革> 享禄四年(1531)三月、細川晴元・三好元長軍と対峙した細川高国方の浦上掃部助村宗が 野田・福島に陣取ったことが、『細川両家記』に記されている。あくまで陣を布いたのであって、 城砦に値するものが築かれたか否かは定かでない。両者は五月末まで小競り合いを続けた が(中嶋の戦い)、戦線は膠着した。六月二日、高国軍の後詰として参戦した赤松政祐(後の 晴政)がにわかに裏切り、高国方の背後を襲った。政祐の内応は事前に計画されていたもの とみられ、三好軍もすかさず呼応して高国方を挟撃したため総崩れとなり、村宗は戦死にした (大物崩れ)。 『摂津名所図大会』には、「野田城跡 野田村にあり 字を城の内といふ はじめ細川氏綱在城 す 云々」とある。氏綱は高国の養子であるが、天文十七年(1548)に晴元と対立した元長の 子長慶に擁立され、翌年の江口の戦いで晴元を破った。1550年代に入って長慶が三好政権 を打ち立てると、氏綱は管領として推戴され、淀(古)城主となった。したがって、もし氏綱が 野田城主であったとすると、その在城期間は江口の戦いから淀移転までの間と推測される。 ただし、一次史料による裏付けがないため、『日本城郭大系』では留保を加えている。 元亀元年(1570)、織田信長に駆逐されていた三好三人衆が、四国の軍勢を率いて摂津へ 上陸した。三人衆勢約8千人は、野田城および福島城に拠った。『細川両家記』には「猶似て 堀をほり 壁を付け 櫓を上げさせ」などとあることから、中嶋の戦い以来の砦跡を利用しつつ、 本格的な城郭に仕立てられたものと推測される。信長は大軍を率いて付城群を構築し、九月 八日から本格的な攻城を開始した。しかし、急拵えとはいえ三角州の天険を利用した野田・ 福島両城は、容易には落城しなかった(野田城・福島城の戦い)。 九月十二日夜、それまで中立を保っていた石山本願寺の顕如は、鐘を打ち鳴らして人数を 集め、信長軍の陣へ襲いかかった。これにより再び戦線は膠着したが、本願寺の動きに呼応 するように浅井・朝倉連合軍が近江宇佐山城を襲ったため、同二十三日、信長は摂津の陣を 引き払った。 天正四年(1576)、石山本願寺攻めに乗り出した信長によって、野田城は攻め落とされた。 正確な落城日時は不明だが、同年七月十三日の第一次木津川口の戦いでは、織田水軍の 拠点となっていたとみられているため、それ以前のことと推察される。同八年(1580)に顕如が 石山本願寺を退去するまで、野田・福島両城は重要な付城の1つであったとみられているが、 その後も存続したか否かは明らかでない。 慶長十九年(1614)の大坂冬の陣で、大野道犬斎治胤が「野田の新家」に800人を配して 守らせたと、『西成軍史』に記されている。十一月二十三日、九鬼守隆・向井忠勝ら幕府方の 水軍が荒天に乗じて野田を急襲し、道犬斎軍は混乱に陥って逃散した(野田・福島の戦い)。 これが、野田(城)が戦史に登場する最後のもので、冬の陣の終結とともに廃城となったもの と推測される。 <手記> 現在の極楽寺周辺をかつては小字奥と呼び、寺の西側を小字城ノ内、恵美須神社周辺は 小字弓場と呼んでいたことから、野田城はこのあたりにあったものと考えられています。明治 時代の実測図には、これらの範囲を囲うように水路が巡っていたことが記されています。 野田城の城址碑は2か所にあり、1つは極楽寺門前、もう1つは門前道と県道29号線の追分 (上の地図の緑点付近)に立っています。そのほかには、遺構をはじめ城跡を示すようなもの はありません。当時はデルタを利用した堅城だったということですが、すっかり市街地化された 今日では、地形を読み取ることも困難です。 |
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野田城址碑その1。 | |
野田城址碑その2(極楽寺門前)。 | |
野田城東端付近とされる恵美須神社。 |