福島城(ふくしま) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 浦上村宗か | |
遺構 : なし | |
交通 : JR大阪環状線野田駅または 地下鉄玉川駅徒歩10分 |
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<沿革> 享禄四年(1531)三月、細川晴元・三好元長軍と対峙した細川高国方の浦上掃部助村宗が 野田・福島に陣取ったことが、『細川両家記』に記されている。あくまで陣を布いたのであって、 城砦に値するものが築かれたか否かは定かでない。両者は五月末まで小競り合いを続けた が(中嶋の戦い)、戦線は膠着した。六月二日、高国軍の後詰として参戦した赤松政祐(後の 晴政)がにわかに裏切り、高国方の背後を襲った。政祐の内応は事前に計画されていたもの とみられ、三好軍もすかさず呼応して高国方を挟撃したため総崩れとなり、村宗は戦死にした (大物崩れ)。 野田城については、『摂津名所図大会』に高国の養子細川氏綱が在城していたとする記述 がある。一次史料による裏付けがないため、『日本城郭大系』では留保を加えているが、これ が事実であるとして、福島にも城館が設けられていたのかは不明である。 元亀元年(1570)、織田信長に駆逐されていた三好三人衆が、四国の軍勢を率いて摂津へ 上陸した。三人衆勢約8千人は、野田城および福島城に拠った。『細川両家記』には「猶似て 堀をほり 壁を付け 櫓を上げさせ」などとあることから、中嶋の戦い以来の砦跡を利用しつつ、 本格的な城郭に仕立てられたものと推測される。信長は大軍を率いて付城群を構築し、九月 八日から本格的な攻城を開始した。しかし、急拵えとはいえ三角州の天険を利用した野田・ 福島両城は、容易には落城しなかった(野田城・福島城の戦い)。 九月十二日夜、それまで中立を保っていた石山本願寺の顕如は、鐘を打ち鳴らして人数を 集め、信長軍の陣へ襲いかかった。これにより再び戦線は膠着したが、本願寺の動きに呼応 するように浅井・朝倉連合軍が近江宇佐山城を襲ったため、同二十三日、信長は摂津の陣を 引き払った。 天正四年(1576)、石山本願寺攻めに乗り出した信長によって、福島城は攻め落とされた。 正確な落城日時は不明だが、同年七月十三日の第一次木津川口の戦いでは、織田水軍の 拠点となっていたとみられているため、それ以前のことと推察される。同八年(1580)に顕如が 石山本願寺を退去するまで、野田・福島両城は重要な付城の1つであったとみられているが、 その後も存続したか否かは明らかでない。 慶長十九年(1614)の大坂冬の陣に際し、大野道犬斎治胤が下福島の「五分一」に三重の 堀と棚楼を築いて守ったと、『西成軍史』に記されている。十一月二十三日、九鬼守隆・向井 忠勝ら幕府方の水軍が荒天に乗じて野田を襲うと、治胤軍は混乱に陥って逃散し、下福島・ 上福島も占領された(野田・福島の戦い)。これが、福島(城)が戦史に現れる最後のもので、 冬の陣の終結とともに廃城となったものと推測される。 <手記> 福島城は、セットで登場する野田城の比定地が極楽寺周辺とされているのに対し、今なお 詳しい所在の分からない城です。もし仮に、治胤が築いた五分一の砦が福島城跡を再利用 したものであると考えると、旧下福島村にあたる下福島公園から船津橋にかけての堂島川 沿いにあったものと推測されます。ただし、治胤は上福島にも砦を設けて兵を配したとされ、 戦国時代の福島城と関連があるのかどうかは判断の難しいところです。 いずれにせよ、周辺が再開発でもされない限り、謎が明らかになることはないでしょう。 |
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下福島公園。 | |
公園南の本成寺。 |