上遠野城(かどおの)
 別称  : 八潮見城
 分類  : 山城
 築城者: 上遠野氏か
 遺構  : 曲輪、土塁、石塁、堀、虎口、井戸跡
 交通  : 常磐自動車道いわき湯本ICより車で7分


       <沿革>
           国人上遠野氏の居城とされる。上遠野氏は、文治五年(1189)に菊田荘地頭職を得た
          小山朝政の後裔で、上遠野秀時を初代とする点ではほぼ一致しているが、その系譜は
          諸説あり定かでない。また、秀時は入遠野に日ノ澤城を築いて移ったとされ、いつごろ
          誰が上遠野城を築いたのかも詳らかでない。
           戦国時代初期、上遠野秀基は大館城主岩城常隆(11代)の娘を娶り、岩城氏の有力
          家臣となった。しかし、1570年代ごろに佐竹氏が岩城家中の実権を掌握すると、上遠野
          氏も佐竹氏の支配下に組み入れられた。
           上遠野氏はその後、豊臣秀吉による天下統一の前後ごろに帰農したと伝わる。また、
          一族は伊達家臣や佐竹家臣となって移り住んでいった。上遠野城は江戸時代初期まで
          存続したともいわれるが、詳しい廃城時期は不明である。城内の建物は、棚倉藩陣屋
          に転用されたとされることから、同藩が成立した慶長八年(1603)から、一国一城令が
          発出された同二十年(1615)までの間のことと推察される。


       <手記>
           上遠野城は、御斎所街道上遠野宿場を見下ろす比高120mほどの山稜上にあります。
          南西麓の上遠野公民館から城跡をぐるっと回って南麓の八幡神社へ下りるハイキング
          コースが整備されていて、公民館駐車場にはパンフレットも用意されています。亀の子
          石(のろし台)やしのぶ平といったピークを辿っていったん城の裏手に抜けるので、一見
          遠回りなのですが、迷いにくいので公民館から登るのがおすすめです。
           城の北にあるしのぶ平から、稜線伝いに城を目指すと、主城域は単峰なのですが、
          途中に2つほど明らかに人工の段築が見られるピークがあります。ただ、これらの段築
          はなべて城山側を向いているため、城の施設としてはやや違和感があります。
           さらに行くとはっきりした堀切が現れ、その先が主城域となります。やや広い削平地の
          奥に急峻な土壁があり、その脇をロープでうんしょと上ります。上がったところが主城域
          の最高所で、ここは土塁線となっています。土塁線を下りたところが、すなわち曲輪と
          しての最高所となるわけですが、現地説明板では物見台とされています。
           物見台の下は数段の平場となっていて、その先は通路状のスペースを挟んで主郭と
          なります。主郭は背後に高土塁を要した館跡のような区画で、先の通路との間は低い
          段差となっています。この段差には、一部石塁が認められます。
           主郭の南西側には、あまり防御の役に立ちそうにない窪地の平場と、やはり通路を
          挟んでもう1つ曲輪があります。すなわち、主城域はT字型の通路によって大きく3つの
          区画に分けられる構造をしていることになります。
           この曲輪は主城域の南端にあたり、木が整理されて展望台となっています。別名の
          八潮見城とは、城から8つの浜が見えたことから付いたそうですが、今でも山々の間に
          断続的に数本の水平線が望めました。8つかどうかはともかく、当時は三方にこうして
          いくつもの水平線が見えたのでしょう。
           南端の曲輪と主郭の間の通路を東進すると、竪堀にかかる木橋を抜けて、主郭東下
          の広い曲輪に出ます。その東端には、櫓台状にめくれ上がった土塁が見られます。
          この曲輪から主郭を見上げると、テーブルマウンテンのような絶壁が印象的です。また、
          その脇から主城域の北東側面に犬走り状の道が延びていて、主郭の反対側の虎口
          へと通じています。
           その先は長い下り道となるのですが、途中1か所分岐点があり、案内等もないので
          注意が必要です。下りの場合は右に折れて、とにかく南に向かうことを意識しましょう。
          さらに進むと、城山の裏手と同様、途中にいくつか切岸で区画された段築と、明確な
          堀切が1か所認められます。こちらは城外側を向いているうえに堀もあるので、城の
          造作で間違いないと思われます。そうすると、上遠野城はかなりの規模をもった城と
          いえるでしょう。
           その規模や工事量から見て、上遠野城はおそらく上遠野氏が独力で完成させた城
          ではないと思われます。岩城氏領内の諸城と比べても大きいので、おそらく佐竹氏の
          手によるものと考えるのが妥当でしょう。上遠野は、佐竹氏の奥州経略の拠点である
          赤館城と、浜通りを結ぶ御斎所街道の要所にあり、また入遠野川を下れば田村領に
          至ります。こうした位置関係から、旧岩城氏領内の佐竹氏の軍事拠点として、16世紀
          後半に整備されたのではないかというのが私見です。
           もう1つ気になったのが、上遠野城の構造です。これまで述べた通り、上遠野城には
          @最高所が主郭でなく土塁線A主城域内が防備にあまり資さない通路で3つに区画
          されているB主郭の背後に不自然な道があるC石塁がやはり防御とあまり関係ない
          城内側の低い段差にのみ用いられているD背後の稜線に同じく防御に向かない段築
          が複数見られる、といった城砦らしからぬ特徴があります。これらを総合して考えると、
          ここにはもともと山岳寺院があったのではないかと、個人的に思い至りました。さらに
          いえば、上遠野氏がこの山に居城を築いた確かな証拠はありません。日ノ澤城から
          移ったとしても、それは現在の主城域ではなく、そこから下りる途中にあった峰先の
          段築部分だったと考えると、主城域との間に距離があるのも説明がつきます。こちらも
          あくまで私見なので、状況証拠のみで確証はありませんが。

           
 公民館側登城口から城山を望む。
主郭の段差と説明板および標柱。 
段差下部に石積みが見られます。 
 主郭のようす。
主郭北脇の土塁と虎口跡。 
 井戸跡。
最高所方面の段築。 
 最高所の曲輪(物見台)と土塁線。
主郭向かいの窪地の平場。 
 主城域南端の曲輪。
主城域からの眺望。 
写真では分かりませんが、水平線が見えます。 
 竪堀と木橋。
主郭東側下の曲輪と土塁。 
 曲輪から主郭土塁を見上げる。 
主郭東側下の犬走り状の道。 
奥の開口部は前出の虎口。 
 主城域から八幡神社へ下りる途中の段築。
同じく切岸を伴った段築。 
 さらに下方の堀切。
物見台に戻って土塁線の上。 
 土塁線を裏側下から見上げる。
 これを直登します。
土塁線裏側下の削平地。 
 その背後の堀切跡。
さらに裏手の稜線上の段築。 
 おまけ:亀の子石(のろし台)


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