大館城(おおだて) | |
別称 : 飯野平城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 岩城常隆か | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、虎口 | |
交通 : JR常磐線いわき駅からバスに乗り、 「大館」下車徒歩10分 |
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<沿革> 戦国大名岩城氏の居城であるが、その築城の経緯は諸説あり定かでない。一般には、 岩城氏一族の内紛を制した白土城主岩城(白土)隆忠によって、1440年代ごろに築かれ たとされる。また、『磐城系図』によれば、隆忠の孫常隆が文明十五年(1483)に白土城 から移ったとされる。 他方で、それ以前から岩城氏と同族の岩崎氏の城砦があったとする説もある。岩崎氏 は島倉山館を居城として岩崎郡に勢力をもってたが、応永十七年(1410)に隆忠により 攻め滅ぼされた。この説によれば、岩城氏の一族が岩崎氏を継いで大館城に入ったが、 隆忠ないしその子親隆がこれを逐って移ったとされる。また、岩城家臣に大館氏がある が、大館城との関連は定かでない。 岩城氏は常隆の代に最盛期を迎えたが、同名で戦国時代後期の常隆(17代)のころ には、常陸の佐竹氏に従属を余儀なくされた。天正十八年(1590)の小田原の役で豊臣 秀吉に所領を安堵されたものの、参陣中に常隆が病没すると、佐竹義重の3男貞隆が 岩城氏を継いだ。そのため、関ヶ原の戦い後の慶長七年(1602)に、岩城家は佐竹家に 連座して改易処分となった。 代わって、徳川家譜代家臣の鳥居忠政が10万石で岩城領に入封した。忠政は新たに 平城を築いて藩府としたため、大館城は廃城となった。 <手記> 大館城は別名飯野平城と呼ばれていますが、これは江戸時代の(磐城)平城に対し、 飯野の平城と後世に区別したことによるものだそうです。したがって、平城がなかった 岩城氏時代には、存在しえない呼び名ということになります。 主郭周辺は大館公園として整備されていて、青雲院墓地駐車場から容易に登れます。 主郭は上下2段になっていて、北西側の下段先端は土塁状にめくれています。城内には 堀がほとんどないのですが、その代わり、主郭南西辺はかなり急な切岸となっています。 主郭上段は半分が林となっていますが、下段から向かって右手奥に道があり、その先 には虎口状の土塁があります。この土塁は、全体的にのっぺりした感じの城内にあって、 かなり印象的です。虎口の先は下り道になっていて、湯殿山神社境内に通じています。 境内周辺は地形の改変がみられ、どの程度の造作があったか定かでありません。 神社から続く主郭北東1段下の削平地脇には、竪堀状地形が認められます。ここだけ 竪堀が設けられているのも不自然で、上の地図にもある北麓への登城路であったものと 思われます。 中腹へ戻って、墓地駐車場と城山の境目にも、堀切のような人工の切れ込みが見られ ます。駐車場などの造成に必要とは思えず、こちらも城内で貴重な堀遺構ではないかと 思われます。あるいは、南北往来の堀底道を兼ねていたのかもしれません。 相対的に見ると、山容は険しいもののここで戦おうという意思はあまり感じられません。 鞍部をまたいだ東西の丘にも城域が広がっていたといわれることから、多数の削平地に 家臣の屋敷やその他施設をめぐらした、政治・経済拠点としての意味合いが強かったの ではないかと拝察されます。とはいえ城下町の発展はあまり望めそうになく、忠政が平城 を新造して移ったのも、むべなるかなといったところでしょう。 また、築城者についてですが、個人的には岩崎氏という線は薄いのではないかと考え ています。岩崎氏は滅ぼされる直前までかなりの勢力があったそうですが、それでももし 大館に城を築いてしまうと、白土や好間をはじめ岩城氏の勢力圏に殴り込みをかけるよう な位置にあるため、よほど本気で敵対しないとここには進出できないのではないかと思い ます。おそらく、大館がぎりぎり岩崎郡に含まれることと、岩城氏庶流にも岩崎姓を称する 人物がいたことからの敷衍ではないかと推察しています。 |
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主郭下段と上段の間。 段差の上にあるのは忠魂碑。 |
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主郭下段のようす。 | |
下段先端の土塁状地形。 | |
下段南西辺の切岸。 | |
主郭上段のようす。 | |
上段奥の土塁。 | |
土塁とその脇の虎口。 | |
虎口から下りる道。 | |
下りた先の湯殿山神社。 | |
主郭北東下の腰曲輪。 | |
腰曲輪脇の竪堀状地形。 登城路跡か。 |
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墓地駐車場脇の竪堀状地形。 堀切および堀底道跡か。 |