鏡城(かがみ) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 不明 | |
遺構 : 土塁・堀跡か | |
交通 : JR豊肥本線中村駅徒歩20分 | |
<沿革> いつごろ、誰によって築かれたのかは不明である。大友氏の有力支族戸次氏の庶流に竹中 氏があり、鏡城は竹中村の背後に築かれた城であるが、両者に関係があるのかは詳らかで ない。竹中氏は、戸次氏初代重秀の四男頼直にはじまるとされる。 天正十四年(1586)の戸次川の戦いに際し、島津軍に攻囲された鶴賀城の救援に向かった 豊臣・大友連合軍は、戸次川(大野川の旧称)対岸の鏡城に布陣した。両軍の兵力について は、島津軍が1万〜2万、豊臣軍が6千〜1万4千と諸説あるが、戦場に投入された人数では 豊臣軍が島津軍より少なかったとする点では一致している。 合戦前夜の軍議で、豊臣軍の指揮官仙石秀久は、即座に鶴賀城を救出すべく島津軍への 渡河攻撃を主張したが、主力を成していた四国勢の長宗我部元親や十河存保らは無謀だと して反対し、大友や豊臣の本隊の到着を待つべきだとした。しかし、豊臣家に臣従して日の 浅い四国の諸将に意見されることを嫌ったうえ、四国軍の大将として功績が欲しかった秀久 は、反対意見に激高して攻撃を強行した。 十二月十二日、戸次川を渡った豊臣軍は鶴賀城を攻囲する島津軍に襲いかかった。初めは 豊臣勢が島津勢を圧倒したといわれるが、深追いするうちに数で勝る島津軍に包囲された。 いわゆる島津の「釣り野伏せ」にかかったといわれ、退こうにも戸次川が退路を阻み、豊臣軍 は存保や元親の嫡男信親、大友家の将戸次統常など、100余名の死者を出す大敗となった。 秀久は、撤兵中の諸将を置いて真っ先に戦線を離れ、自領の讃岐まで逃げ帰るという醜態を さらした。 まもなく鶴賀城は陥落し、秀久は豊臣秀吉の怒りを買って改易された。この戦いが、鏡城が 史料に登場する最初で最後のものである。したがって、築城や廃城の経緯については不明で ある。 <手記> 鏡城は、大野川と河原内川の合流点にせり出した丘陵の頂部に位置しています。対岸には 前述のとおり鶴賀城が望めます。戸次川の戦いに際して陣が置かれたということ以外の歴史 は分かっていません。 城跡へは、東麓の竹中集落内から登ることができます。主郭跡と思われる丘の頂部には、 戸次川古戦場に関するパネルと、土地改修か何かの記念碑が建てられています。この周囲 は均されてしまっているので、当時のようすをうかがうのは困難です。ここから、南側へ延びる 尾根筋や、峰続きの西側を探索すると、土塁や堀の痕跡のようなものが見受けられますが、 遺構かどうかは判別できません。麓の登城口脇には、道路と民家の間に不自然にへこんだ 畑地があり、あるいは根小屋の堀跡とも考えられます。 鏡城については、鶴賀城の支城ないし竹中村の領主の城であったと考えるのが自然である と思われます。資料によっては、ひとつ西側の峰(竹中トンネルの上あたり)まで城域に含めて いることもありますが、そこまで入れてしまうと鶴賀城に匹敵するくらいの巨城になってしまい ます。戸次川の戦いに際しては、豊臣軍はたしかにそのあたりにも将兵が陣取ったでしょうが、 鏡城の性格を考えると、そこまで規模壮大な城であったと考えるのは難しいように感じます。 さて、鏡城の一番の見どころは、鶴賀城と戸次川古戦場を手に取るように望むことができる ことです。「古戦場を望む」という1点に関してのみ、鶴賀城址よりもこちらの方が優れています。 そして、鏡城址に立って思うことは、ここから渡河して鶴賀城に向かうなど、あまりにも無謀で あろうという1点です。戸次川原の古戦場は、鶴賀城とそこから延びる稜線に完全に囲まれて います。当時、島津軍は鶴賀城を大軍で包囲していたわけですから、この稜線も彼らの支配 するところであったはずです。そのようななか、敵の目を逃れられない大河を渡って突っ込む など、私には無謀かつ狂気の沙汰としか思えません。釣り野伏せなどという以前に、自ら蜘蛛 の巣に飛び込むようなものです。あらためて仙石秀久の将としての無能ぶりが分かります。 秀久は後に調子よく振る舞って秀吉に取り入り、大名として復活しましたが、この戦いで嫡男 を失った元親や没落した十河氏の無念はいかほどであったかと偲ばずにはいられません。 |
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主郭(と思われるところ)のようす。 | |
主郭南側の尾根筋の土塁状の箇所。 | |
堀跡か。 | |
山麓の民家と道路の間の堀状の畑地。 | |
鏡城址から戸次川古戦場を望む。 右手の山が鶴賀城址。 |