鶴賀城(つるが)
 別称  : 利光城
 分類  : 山城
 築城者: 阿南基家か
 遺構  : 曲輪跡、櫓台、堀、土塁
 交通  : JR豊肥本線中判田駅よりバス
       「上利光」バス停下車徒歩20分


       <沿革>
           豊後の古族大神氏の祖大神惟基の二男阿南基家によって築かれたとの伝承がある。ただし、
          両名は9〜10世紀の人物であり、その時代に中世的な山城が築かれていたのかは疑問である。
          一般的には、大友氏庶流利光氏によって築かれたと考えられている。利光氏の起源については
          いくつか説があり判然としない。『日本城郭大系』によれば、『鶴賀城戦史』に大友氏初代能直の
          三男親家が利光に住して利光氏を称したとあるとされる。現地説明板によれば、親家は能直の
          孫にあたるとされる。また、利光氏を大友氏の有力支族戸次氏の分流とする説もある。戸次氏は
          能直の子親秀の二男重秀にはじまる。
           天正十四年(1586)、衰退する大友氏を滅ぼすべく、島津氏が豊後に侵攻した。十一月、島津
          家久の率いる2万の大軍が鶴賀城に迫った。城主利光越前守鑑教入道宗魚は、家久の勧告を
          拒否し、籠城の構えをみせた。鶴賀城は、大友宗麟のいる臼杵と大友義統のいる府内の双方と
          連絡できる要衝にあり、この城が抜かれることは、大友勢力が分断され、巻き返しを図ることが
          事実上不可能となることを意味した。城に籠ったのは、戦闘員が700名ほど、非戦闘員が3千人
          ほどであったといわれる。
           十二月初頭から城外での緒戦がはじまり、同月六日から本格的な城攻めが行われた。その日
          のうちに三の丸、二の丸が落ち、本丸域を残すのみとなったが、島津勢はそれ以上攻めきること
          ができず、ひとまず家久は城の南の梨尾山に退いた。翌七日の戦闘で、宗魚は流れ矢(流れ弾
          とも)に当たり、戦死した。城兵は宗魚の死を隠して戦いを続け、なおも5日ほど持ち堪えた。一連
          の戦いで、島津軍は3千人、城兵は1千人ほどが戦死したとされる。
           十二月十一日、宗麟の要請を受けた豊臣家の援軍が、戸次川(大野川の旧称)の対岸の鏡城
          に到着した。豊臣の援軍とはいっても、仙石秀久を指揮官とする四国勢を中心とした先遣部隊で、
          これに道案内役の大友家臣戸次統常の手勢を加えても、約6千〜1万4千と島津軍に数で劣って
          いた。四国勢の主力を成す長宗我部元親や十河存保は、救援は不可能として豊臣本隊の到着
          を待つよう進言したが、秀久はこれを容れず、戸次川の渡河攻撃を強行した。翌十二日、豊臣軍
          は川を渡って島津勢に襲いかかり、初めは圧倒したものの、まもなく島津の「釣り野伏せ」により
          壊滅した。存保や統常、元親の嫡男信親ら100余名が討ち死にし、秀久は真っ先に戦場を離脱し、
          領国の讃岐まで逃げ帰った。
           戸次川の戦いの敗報を受けた義統は、府内を捨てて竜王山城へと逃れた。鶴賀城の籠城兵も、
          援軍の見込みがなくなったことで抵抗を諦め、開城した。残兵は宗麟の籠る丹生島城へ収容され
          たとされる。
           翌天正十五年(1587)、豊臣秀吉の本隊が九州入りすると、島津勢は豊後から撤退した。これ
          以降、鶴賀城が史料に登場することはなくなり、廃城となったものと推測される。

          
       <手記>
           鶴賀城は、大野川が山間部から大分平野に出る喉口部に位置する山城です。前述のとおり、
          豊後の東西と南北の連絡の結節点に位置する要衝です。周辺の戸次地域は古くから開かれた
          ところですが、鶴賀城がいつごろ築かれたのかは不明です。現在の遺構は戸次川の戦いのとき
          のものですが、畝状竪堀群を備えたかなり先進的な縄張りをもっており、少なくとも丹生島城築城
          以降に大きく手を加えられたものと推測されます。
           城跡へは、北麓の利光集落からの登山道を上るか、東の尾根伝いに走る林道を利用するかの
          どちらかの方法でたどり着けます。上の地図の緑丸の範囲内に3つの峰があるのが、左から本丸
          ・二の丸・三の丸です。林道は途中までしかないように描かれていますが、小回りの利く車であれ
          ば、二の丸の直下まで入ることができます(オフロードなところも一部ありますが)。逆にいうと、
          二の丸と三の丸は道路建設にともなう破壊がみられ、鶴賀城の特徴である竪堀群も、二の丸と
          三の丸の周囲には、あったのかどうかよくわかりません。二の丸には城址碑が建てられています。
          二の丸と三の丸の間の稜線には、ごく低い土塁状遺構がありますが、両曲輪には土塁は残って
          いません。
           本丸は2段となっており、上段にはさらに櫓台があります。周囲には竪堀群や堀切が巡り、とくに
          南側に対して堅固なつくりとなっています。本丸北西端は狼煙台か物見台のように突き出た空間
          となっています。ここからは、城内で唯一眼前の樹木が整理されているので、眼下の古戦場はもと
          より、遠く別府湾まで望むことができます。
           本丸の北には穀倉跡と呼ばれる曲輪があります。ここにも、畝状竪堀群が良好に残っています。
          利光集落から登った場合、ノロシ台と呼ばれる曲輪を通って、この穀倉跡に出ることになります。
           さて、鶴賀城とその城下の戸次川原は、九州を代表する激戦地の1つです。鶴賀城を訪れた際
          には、その北の尾根伝いにある長宗我部信親の墓と、十河一族の慰霊碑にぜひとも立ち寄られる
          とよいと思います。信親と存保がここで討ち死にしていなければ、長宗我部家も十河家も滅亡する
          ことはなかったかもしれません。そして、間接的に両家を滅ぼした秀久本人は、大名としてのうのう
          と江戸時代を迎えています。戦国の世の虚しさ、不条理さを感じずにはいられません。

           
 鏡城址から鶴賀城址を望む。
本丸櫓台跡。 
 本丸北西端のようす。
本丸からの眺望。 
右奥に別府湾が広がっています。 
 本丸の竪堀跡。
本丸東下の堀切跡。 
 本丸下段のようす。
穀物倉跡のようす。 
 穀物倉の畝状竪堀群。
 画面内に2本穿たれています。
二の丸の鶴賀城址碑。 
 二の丸のようす。
二の丸と三の丸の間の稜線の土塁跡。 
 三の丸のようす。
おまけ:長宗我部信親の墓。 
 おまけA:十河一族慰霊碑。


BACK