鍛冶坂城(かじがさか)
 別称  : 鍛冶ヶ坂城
 分類  : 平城か
 築城者: 坂定住
 遺構  : 不詳
 交通  : JR関西本線加太駅徒歩10分


       <沿革>
           天文十三年(1544)、鹿伏兎城主鹿伏兎定長の弟定住によって築かれたとされる。
          定住は分家して坂氏を称した。
           定長の子定秀(宗心)は、元亀元年(1570)の姉川の戦いに際して城を定住と弟の
          定義に預け、浅井長政方として参戦して討ち死にした。鹿伏兎氏は宗心の子盛氏が
          継いだが、天正二年(1574)に長島一向一揆に参加して戦死し、定義が家督を継承
          した。
           天正十一年(1583)、定義は賤ヶ岳の戦いの前哨戦で織田信雄に鹿伏兎城を攻め
          落とされ、鹿伏兎氏は滅んだ。このとき、鍛冶坂城で戦闘があったかは不明である。
          また、定住や坂氏の動向についても明らかでない。坂氏の子孫は、同地に今も居住
          している。


       <手記>
           常光寺門前の道路角に、鍛冶坂城跡の石碑が建っています。ただし、このあたりに
          設けられた館城なのか、常光寺背後の丘上に築かれた山城なのかは不明です。
           坂氏といえば、織田信長の三男信長生母が伊勢の坂氏の女とされています。この
          坂氏の出自については明らかではないようで、あるいは定住の娘とみることもできる
          でしょう。ただし、その場合いくつか問題があります。
           1つ目は、坂氏と信長にどのような接点があるかという点です。1つ可能性があると
          するなら、永禄二年(1559)の信長の上洛に際してでしょう。このとき、信長は美濃の
          斎藤義龍に刺客を差し向けられたとされ、行きのルートは不明ながら、帰りは八風峠
          の険しい山道を1日で越えています。往路でもそのような無茶をしたとは思えません
          ので、鹿伏兎に止宿したとしても不思議ではないでしょう。
           ただし、信孝は同三年(1558)の生まれなので、上洛時に初めて知遇を得たとする
          のは時系列的に合いません。少なくとも上洛の2年以上前から、坂氏ないし鹿伏兎氏
          と接触を図っていたことになります。
           2つ目は、織田家臣(正しくは陪臣)となった坂定住を、信長や信孝が厚遇した形跡
          がみられない点です。とくに信孝からみれば、定住は祖父か、最低でも血縁の親族
          ですから、それなりの扱いをされて然るべきでしょう。ところが、坂氏や鹿伏兎氏が
          織田家の姻族として遇されたようすはなく、それどころか両氏と同じ関一族の神戸氏
          を継いだ信孝は、養父神戸具盛や関本家の関盛信を幽閉までしています。
           3つ目は、信長の北勢侵攻時に坂氏・鹿伏兎氏はじめ関一族がすべて信長と敵対
          している点です。もし定住の娘が信長に嫁いでいるなら、坂氏は北伊勢での重要な
          協力者であり突破口であるはずです。ところが、鹿伏兎氏はじめ関一族はいずれも
          調略ではなく武力衝突を経て和睦ないし降伏しており、信長が坂氏の女を娶ったと
          するならあまりにも非効率です。
           これらの疑問から、私としては信孝生母を鍛冶坂城主坂氏の女とするのは留保が
          必要かと考えています。

 鍛冶坂城址碑。
常光寺と裏手の丘を望む。 
 常光寺前から鹿伏兎城跡を望む。
鍛冶坂前で加太川を渡る大和街道の流れ橋。 


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