鹿伏兎城(かぶと) | |
別称 : 加太城、牛谷城、白鷹城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 鹿伏兎定俊 | |
遺構 : 曲輪、石垣、土塁、虎口、井戸 | |
交通 : JR関西本線加太駅徒歩20分 | |
<沿革> 北条得宗家の被官であった関盛政は、元弘三年(1333)に鎌倉幕府が滅ぶと自領の 鈴鹿郡に戻って本家を三男の盛繁に継がせ、長男盛澄を神戸に、次男盛門を国府に、 四男盛宗を鹿伏兎に、五男政実を峯に配して地歩を固めた。盛宗の子定俊が、牛谷山 に城を築いたのが鹿伏兎城のはじまりとされる。 盛宗の代から鹿伏兎氏を称したとされるが、牛谷城が鹿伏兎城と呼ばれるようになる のは、7代定好からといわれる。また、別称の白鷹城は、定好の子定長が天文十一年 (1542)に白鷹を将軍足利義晴に献上したことにちなむと伝わる。 定長は、永禄十年(1567)からの織田信長の北伊勢侵攻に本家らとともに抵抗したが、 翌十一年(1568)に本家らとともに織田氏に服属した。しかし定長の子定秀(宗心)は、 元亀元年(1570)の姉川の戦いに際して鹿伏兎城を弟の定義と叔父の坂定住に任せ、 浅井長政方に加わり討ち死にした。 鹿伏兎氏は宗心の遺児盛氏が継いだが、天正二年(1574)に長島一向一揆に参加し、 弟とともに戦死した。家督は定義が継承し、同十年(1582)の本能寺の変では伊賀越え をしてきた徳川家康の一行を鹿伏兎で出迎え、亀山まで護送したとされる。 翌天正十一年(1583)、織田信孝・滝川一益と羽柴秀吉・織田信雄とが対立すると、 定義は前者の陣営に属し、賤ヶ岳の戦いの前哨戦として信雄勢に鹿伏兎城を攻め落と された。定義は京へ逃れて鹿伏兎氏は滅び、鹿伏兎城も廃城となったとみられる。 <手記> JR加太駅の真裏にせり出した牛谷山の頂上が、鹿伏兎城跡です。視認するのは容易 ですが、この城は登城ルートに乗るまでが大変です。私も先人のサイトのお導きがなけ れば、諦めていたか恨み言を吐きながらの往復となったでしょう^^; まずは駅から国道に出て、山麓南西端のカーブを目指します。目印は陸軍歩兵伍長が なんとやら彫られている石碑で、その上の田んぼの畔を山へ向かって進みます。すると、 切通しを抜け線路を越えた先に階段が現れるので、ここまでくれば一安心です笑 道は左右に分かれ、片方は神社の跡を、もう一方は貯水池の脇を通りますが、やがて また合流して後は尾根筋を登るのみです。途中も城域に含まれそうな雰囲気はしばしば ありますが、おそらく城外でしょう。行き着く先は主郭土塁の背後下で、最後は急勾配の 直登を強いられます。登り切れば土塁上の山頂、途中でスライドすれば石垣に至ります。 この石垣は土留めと考えられますが、かなりしっかりした野面積みで、技術力の高さが うかがえます。その脇には搦手とみられる虎口と、説明板があります。虎口を抜ければ 主郭ですが、その脇には主郭平坦面より高所の、土塁を利用した曲輪が設けられている のが特徴です。後述する通り前方の虎口脇にも腰曲輪があり、決して巨城ではないもの の、技巧性にも富んでいるようすが分かります。 主郭は土塁に囲まれた空間で、そのうち西辺は牛谷山頂部の稜線を削ったものです。 こうした構造は、伊賀や甲賀の城館に多く見られるもので、地域的な近接性や類似性と いった観点から興味深いといるでしょう。 主郭前方には虎口が少なくとも2つ連続していて、前述のとおり腰曲輪が付随している ほか、それぞれ喰い違いになっているなど防備は厳重です。虎口下の曲輪には井戸が あり、今も石組みを残しています。 これだけ素晴らしい遺構を残す地域の中核城ですので、なんとか登城ルートを整備して いただけまいかと願ってやみません。 |
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東から鹿伏兎城跡を望む。 | |
南西の流れ橋から望む。 | |
登城口の目印はこの石碑です。 | |
こちらの畦道をずんずこ進みます。 | |
神社跡ルートの社殿基壇。 | |
溜め池ルートの貯水池。 | |
石垣。 | |
同上。 | |
石垣脇の説明板。 | |
説明板脇の武者溜り。 | |
説明板脇の主郭虎口。 | |
主郭虎口脇の曲輪と土塁。 | |
主郭と土塁。 | |
同上。 | |
主郭土塁上にあたる牛谷山頂上。 | |
稜線を利用した主郭土塁。 | |
主郭南東の大手虎口。 | |
2つ目の虎口。 | |
虎口下の曲輪と井戸跡。 | |
石組みの残る井戸跡。 |