梶原堀之内(かじわらほりのうち)
 別称  : 宇都宮氏陣屋
 分類  : 平城
 築城者: 宇都宮氏か
 遺構  : なし
 交通  : 都電荒川線梶原停留所下車


       <沿革>
           『新編武蔵風土記稿』によれば、この地には宇都宮氏の陣屋が営まれ、正治二年(1200)に鎌倉を
          逐われた梶原景時らがこの付近に落ち延びた際、宇都宮氏郎党は景時一行を討ち取ったとする伝説
          があるとされる。しかし、景時らは実際には駿河国清見関付近で討ち死にしているため、『記稿』でも
          この伝説は一蹴されている。
           戦国時代の武将太田資正(三楽斎)の次男政景は、梶原氏を名跡を継いで梶原政景を名乗った。
          『鎌倉大草子』によれば、政景の2代前に梶原道景という人物がいたとされる。この梶原氏と太田氏、
          あるいは景時との関係は不明である。『日本城郭大系』では、この戦国期梶原氏と梶原堀之内との
          関連を指摘している。しかし、道景はともかく、政景のころには梶原堀之内周辺は北条氏の領土と
          なっており、『小田原衆所領役帳』によれば資正のはとこにあたる太田新六郎(康資)の領分であった。
          北条家臣となっていた新六郎に対して、資正は反北条を掲げて岩付城を本拠としていたため、梶原
          政景が梶原堀之内にコミットできたとは考えにくい。
           『大系』では、太田氏家臣(一族)梶原氏が梶原堀之内との関連を確実視しているが、資料や遺構
          が見つかっていない以上、断言はできないと思われる。


       <手記>
           梶原堀之内村は、地名としては残っていませんが、現在の都電荒川線梶原停留所周辺に字名と
          して散見されます。地名と伝説、そして戦国期梶原氏の存在のみが頼りの城館ですので、その存否
          も含めて何ともいえません。
           要害性はまったくなく、隅田川(当時の入間川)の沖積地にあることから、開発領主の居館程度の
          ものがあった可能性は指摘できます。


           


梶原堀之内周辺現況(梶原停留所)。


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