岩槻城(いわつき)
 別称  : 岩付城、白鶴城、浮城
 分類  : 平城
 築城者: 太田道灌ないし成田正等
 遺構  : 門、堀、土塁、虎口、土橋
 交通  : 東武野田線岩槻駅徒歩15分


       <沿革>
           一般的には、長享元年(1457)に太田道真・道灌父子によって築かれたとされる(『鎌倉
          大草紙』)。他方、『文明明応年間関東禅林詩文等抄録』所収の「自耕斎詩軸并序」には、
          「岩付左衛門丞顕泰公父故金吾 法諱正等(中略)築一城」とある。近年、この文書の岩付
          顕泰を忍城主成田顕泰に比定し、その父(養父)とされる自耕斎正等が文明十年(1478)
          に築いたとする説が提唱され、有力視されている。ただし、岩付顕泰が本当に成田顕泰と
          同一人物なのか、「築一城」が岩付城を指しているのかなど疑問も多く残る。いずれにせよ、
          このころ一時期「岩付顕泰」という人物が存在していたことが事実として確認できる。
           永正年間(1504〜20)ごろには、太田道灌の養子資家が岩付城主となっていたとされる。
          資家の子資頼の代の大永五年(1525)、岩付城は北条氏綱に攻められ、太田家臣渋江
          三郎が内応したこともあり、落城した。この時の攻城戦は、北条方に3千人余もの死者を
          出す激戦だったとされる。資頼は石戸城に逃れたが、享禄三年(1530)に岩付城を奪還
          した。
           天文十五年(1546)の河越夜戦で太田氏の主家である扇谷上杉氏が滅亡すると、資頼
          の子資正は、同十七年(1548)に北条氏に降った。永禄三年(1560)、越後の長尾景虎
          (上杉謙信)が関東に出兵すると、資正はこれに呼応して北条氏に反旗を翻した。しかし、
          資正は北条氏に通じた嫡男氏資により、同七年(1564)に岩付城を逐われた。
           氏資には男子がなく、永禄十年(1567)の三船山の戦いで氏資が討ち死にすると、北条
          氏政の子源五郎が太田氏の名跡を継ぐ形で岩付城に入った。源五郎は天正十年(1582)
          に没したとされ、同十三年(1585)に改めて源五郎の弟の氏房が岩付太田氏を継いだ。
          ちなみに、かつては源五郎と氏房は同一人物とされていたが、今日では別人とみられて
          いる。
           天正十八年(1590)の小田原の役に際して、氏房は小田原城に籠城し、岩付城は氏房
          の付家老伊達房実以下2千人余が守備した。浅野長吉(長政)率いる2万の兵に攻められ、
          城兵は奮戦したものの、降伏を余儀なくされた。
           役後、徳川家康が関東に移封となると、高力清長が2万石で岩付城主となった。「岩付」
          の表記が「岩槻」となるのはこれ以降のことと推測されるが、詳しい時期は定かでない。
          清長の跡を継いだ嫡孫忠房の代の慶長14年(1609)、火災により城内のほとんどが焼失
          した。おりしくも、家康が鷹狩で岩槻城に止宿する計画があったため、忠房は応急措置と
          して三の丸の復興工事を突貫で進めた。本丸と二の丸は焼け落ちた空き地のままとされ、
          城の主機能は三の丸へ移った。
           忠房は寛永十六年(1639)に島原藩4万石へ転封となり、以後青山忠俊、阿部家5代、
          板倉重種、戸田忠昌、藤井松平忠周、小笠原家2代、永井家3代と、譜代大名が目まぐる
          しく入れ替わった。将軍徳川家重の側近として知られる大岡忠光が、宝暦六年(1756)に
          2万石で入封するにおよんでようやく藩主家が落ち着き、大岡家が8代続いて明治維新を
          迎えた。


       <手記>
           岩槻城は、かつての荒川の本流、現在の元荒川の湾曲部の内側に築かれています。
          もっとも遺構がよく残っている一帯が岩槻城址公園となっていますが、ここは城の南東端
          の新曲輪および鍛冶曲輪があったところで、主城域の外側にあたります。城址公園には
          堀や土塁が良好に残存し、当時の沼地は朱塗りの八つ折橋が美しい池となっています。
          また、黒門と裏門の2棟が公園内に移築されていて、貴重な現存建造物となっています。
           肝心の主城域はというと、完全に均されて市街地や宅地となり、城跡の面影はまったく
          残っていません。浮城とまで呼ばれた湿地帯に浮かぶ城跡を、ここまでまっさらに更地化
          できるものかと、人間の威力にある意味感服してしまいました。大手門跡や鐘楼周辺の
          武家町小路などの地割りに、いくらか近世城郭のよすがを嗅ぎ取るくらいでしょうか。東武
          野田線沿いにも土塁が残っているそうですが、そちらの方は見そびれてしまいました。
           岩槻といえば、岩槻街道の宿場でもあり、首都圏では川越と肩を並べる歴史と文化を
          もつ町だと思われます。ですが観光という面においては雲泥の差があり、城跡についても
          城下町についても、とかく岩槻には観光で人を呼び込もうという意思が感じられません。
          なんとももったいないことのように思うのです。
           ところで、岩槻城に関して築城主と築城年代についての議論がやや活発になっている
          ようです。成田氏と太田氏のどちらが築いたのかについては判じかねますが、2つの点に
          ついて指摘できると思います。1つは、岩槻城と成田氏の居城忍城が似た選地と縄張りを
          もっていることです。両城とも川が半円状に屈曲した内側の湿地帯にあり、浮島を並べた
          ような曲輪配置も類似しているといえるでしょう。もう1つは、城の東側に川を背負っている
          という点です。すなわち、素直に考えれば仮想敵は東にあるといえ、少なくとも築城時点
          では、古河公方に対する前線の城であったと考えられます。

           
 鍛冶曲輪の城址碑。
鍛冶曲輪と新曲輪の間の虎口。 
 
 新曲輪と鍛冶曲輪の間の堀障子跡。
鍛冶曲輪の堀。 
 鍛冶曲輪の堀底のようす。
鍛冶曲輪の土橋と虎口。 
 移築黒門。
移築裏門。 
 本丸跡現況。
大手門跡現況。 
 久伊豆神社境内を含む新正寺曲輪跡の石碑。


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