福岡城山(ふくおか)
 別称  : 城山遺跡
 分類  : 平城
 築城者: 富永善左衛門か
 遺構  : なし
 交通  : 東武東上線上福岡駅よりバス
       「下福岡」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           『新編武蔵国風土記稿』の「福岡村」の項に「城山」として記載があり、「何人の居蹟と云こと
          を伝えず 按に此辺小田原北条家人富永善左衛門が領せしことは 村名の條に見えたれば 
          若くは富永が城蹟なりしや」とある。『小田原衆所領役帳』によれば、善左衛門は福岡村に48
          貫文余を領していたとされる。『寛政重修諸家譜』によれば、善左衛門は江戸城の守将の1人
          となったことでしられる後北条氏重臣富永直勝の弟ないし甥富永守重の子守定に充当すると
          される。ただし、守重や守定の名は一次史料からは確認されていない。
           また、善左衛門は福岡郷全体を知行していたわけではなく、福岡城山を善左衛門の居館と
          する確証はない。


       <手記>
           福岡城山のあった(下)福岡地区は、今では上の地図の通り周囲をぐるり川に囲まれていて、
          浮島のようになっています。ですが、西のまっすぐな新河岸川の流路については近年改修され
          たもので、地区の北から東をうねって流れる小流が本来の新河岸川旧路です。江戸時代の古
          絵図によると、残る西と南にも新河岸川の支流とそこから引いた水路が張り巡らされ、城山の
          周囲を堀のように囲っていたようです。
           『記稿』によれば、かつては二重の堀跡や塚などが残っていたようですが、現在ではきれいに
          土地改良され、のどかな田園地帯となっています。周辺には、「屋敷」「戸開き(大手門の意と
          解されています)」「いぬ木戸」「たかまま(高馬場)」「湯殿」といった城館関連の小字が残って
          いたそうですが、今日ではもはやどこがどうとみてとることはできません。
           上の地図に示したところに城跡公園があり、説明板が設置されています。公園建設に先立ち
          発掘調査が行われ、直角に折れた幅12mの堀跡が検出されました。位置や形状などからみて
          内側の堀の南西隅部分のものと思われます。堀は埋め戻されていますが、位置を示す小さな
          柱が建てられています。
           公園の北北東にある天神社(天満宮)は、館の鬼門除けとして創建されたと伝わっています。
          もともとは、現在の位置よりさらに北東200mほどのところにあったそうです。城跡公園と並んで
          城山を偲ぶ貴重なよすがとなっています。
           さて、城主として挙がっている富永善左衛門については、確証はないものの、状況証拠など
          からほとんど確定のように扱われています。『上福岡市史』などでは、善左衛門の本家とみられ
          る土肥富永氏が水軍を率いる一族であったことから、善左衛門が新河岸川の水運に関与して
          いたのではないかと推測しています。
           ただ、新河岸川が明確に物流の幹線として利用されるようになったのは江戸時代に入って
          からであり、川自体もそれ以前は内川と呼ばれていました。物流に使わなかったとまではいい
          ませんが、江戸時代ほど重視されていたのかは疑問です。海賊衆としての富永氏の水運手腕
          を生かそうというのであれば、普通に海沿いか、川にしてももっと大きな河川を任せるものでは
          ないかな、と率直に考えて思います。

           
 城址公園と説明板。
 左手水飲み場脇にあるのが堀跡を示す柱。
 
フェンスの手前に堀幅を示す2本の柱。 
 
 天満宮(天神社)。


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