江戸城(えど)
 別称  : 千代田城、東京城
 分類  : 平山城
 築城者: 江戸重継ないし太田道灌
 遺構  : 櫓、門、天守台、石垣、水濠、土塁など
 交通  : 地下鉄大手町駅下車(大手門)または
       地下鉄東西線竹橋駅下車(平河門)


       <沿革>
           平安時代末、坂東八平氏のひとり秩父重綱の四男重継が江戸氏を称し、江戸城のある
          台地のどこかに居館を構えたといわれるが、現在ではその位置は不明である。江戸氏は、
          応安元年(1368)の武蔵平一揆や、応永二十三年(1416)の上杉禅秀の乱などの関東の
          騒乱を経て没落した。
           康正二年(1456)、扇谷上杉家宰太田道灌(資長)が江戸に築城を開始した。これが、
          城砦が築かれたことが明らかに分かる最初のものである。翌長禄元年(1457)に、一応の
          完成をみたといわれる。
           当時の江戸城は北西から伸びる舌状台地の先端を利用したもので、現在の本丸一帯が
          城域に相当するとみられている。城内には「静勝軒」と称する風雅のための高楼の建物が
          あり、道灌は江戸に高名な詩人や歌人を招いたり住まわせたりした。そのなかのひとりの
          万里集九が、城のようすについて『静勝軒記』に書き残している。それによると、江戸城は
          子城(根城)、中城、外城の3つの曲輪から成っていたとされる。つまり、現在の本丸先端
          の富士見櫓周辺を主郭とし、天守台の北、北桔梗門下あたりに堀切を設け、さらに本丸と
          堀切の間に2条の堀を穿ち、ニ曲輪と三曲輪を設けた構造になっていたものと推測されて
          いる。当時の大手は、現在の汐見坂あたりにあったと考えられている。城内に風流のため
          の高楼建築を設けることは他の城にも伝播し、山内上杉氏の鉢形城や大石氏の高月城
          にも、同様の建物が建造されたといわれる。
           道灌は、その権勢を妬んだ主君上杉定正によって文明十八年(1486)に糟屋館で暗殺
          され、定正の家臣曽我豊後守が城代となった。明応三年(1494)、定正が死去すると甥の
          朝良が跡を継いだ。朝良は永正元年(1504)に山内上杉顕定に居城の河越城を包囲され、
          降伏した。そのときの条件として、甥の朝興に家督を譲り、江戸城へ隠居することとなった。
           朝良は永正十五年(1518)に死去し、代わりに朝興が江戸城に入ったといわれる。大永
          四年(1524)、道灌の孫の資高が北条氏綱に内応し、北条勢を江戸城へ招き入れた。この
          経緯から、江戸城ないし周辺は太田氏が支配していたとも考えられている。朝興は、現在
          の港区高輪で北条勢と戦ったが(高輪原の戦い)、敗れて河越城へ撤退した。
           氏綱は本丸に重臣富永政直、二の丸に同じく遠山直景、そして三の丸に資高を配した。
          氏綱がいかに江戸城を重視していたかがう察せられるが、江戸城奪取の立役者であり元
          の城主でもあった資高にとっては、不満の残る恩賞となった。このことが、資高の子康資の
          離反を招いたともいわれ、永禄六年(1563)の第二次国府台合戦へと発展した。同戦いで、
          江戸城代の富永直勝(政直の子)と遠山綱景(直景の子)は戦死した。一説には、康資の
          叛心を見抜けなかったことを恥じて無謀な突撃を行ったともいわれる。
           江戸城代は綱景の子政景と直勝の子政家がそれぞれ引き継いだ。また、康資の代わり
          として北条綱成の次男氏秀(近年では上杉謙信の養子となった景虎とは別人とみられて
          いる)が、新たに城代に加わったとされる。氏秀は天正十一年(1583)に没し、子の乙松丸
          が跡を継いだ。
           天正十八年(1590)の小田原の役では、遠山氏ら城代はみな小田原城に詰めており、
          江戸城守備の指揮は政景の弟川村秀重が執っていたといわれる。江戸城は前田利家、
          浅野長吉(長政)らの軍勢に囲まれ、開城した。役中、古田重然(織部)や松下重綱が城を
          預かっていたとされる。
           役後、北条氏の旧領は徳川家康に与えられ、よく知られている通り、秀吉によって江戸城
          が家康の居城として指定された。このとき、家康が江戸城に入城したのが八月一日だった
          ため、後に江戸幕府はこの日を祝日とした(八朔)。
           豊臣大名時代の家康によって、城は現在の本丸から三の丸、ならびに西の丸あたりまで
          を城域として増改築された。また、本丸眼下には平川(神田川)が流れ、現在の皇居外苑
          あたりはすでに湾口(日比谷入江)であったが、城下町や武家屋敷の土地を確保するため、
          城の東側に堀を開鑿して(現在の日本橋川)湿地帯の水位を下げ、その残土で日比谷入江
          を埋め立てた。それでも、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの時点では、まだ五大老筆頭の
          居城に見合う近世城郭とはいえない規模であった。
           本格的な改築は、慶長八年(1603)に家康が征夷大将軍に補任されてからのことである。
          江戸幕府開府により天下普請として全国の大名を徴発できるようになったことで、天下人の
          居城づくりが進展した。縄張りには築城の名手として名高い藤堂高虎が当たり、同十二年
          (1607)には第1期の天守が完成した(慶長天守)。この天守は、現在の天守台よりかなり
          南にあり、小天守を伴った白亜の外観であったといわれる。
           慶長天守は2代将軍秀忠によって造り直しが命じられた。解体されたのち大坂城へ移築
          されたともいわれるが、定かではない。第2期天守は元和八年(1622)に建設され、現在の
          天守台とほぼ同じ位置といわれる(元和天守)。ただ、規模は大幅に縮小された(3分の1
          程度とも)。外観については諸説あり、黒壁であったか白壁であったかについても、意見が
          分かれている。
           秀忠の死後、3代将軍となった家光は、再び天守の造り直しを命じた。この第3期天守は
          寛永十五年(1638)に完成した。一般に江戸城天守といって取り上げられたり想起される
          のは、この寛永天守である。
           しかし、完成から19年後の明暦三年(1657)、寛永天守は明暦の大火によってあっけなく
          焼失した。大火後の復興に当たった保科正之(家光の異母弟)は、天守を「無用の長物」と
          みなし、その再建に強く反対したため、以後江戸城に天守が築かれることはなかった。
           江戸城は、明治元年(1868)に新政府軍に対して無血開城するまで、幕府の首府として
          機能した。翌年、明治天皇が江戸城へ遷り、現在に至るまで皇居となっている。


       <手記>
           江戸幕府の首府としての江戸城は、広義には千代田区全域がその城域となります。ここ
          では、家康・秀忠時代くらいまでの江戸城を中心に話を進めたいと思います。江戸城のうち、
          西の丸から吹上曲輪にかけては皇居の敷地になっていて、一般には公開されていません。
          また西の丸下は、皇居外苑として広々とした空間となっています。外苑の南東隅にはレスト
          ハウスがあり、食事はもちろんんですが、江戸城の濠に棲む魚などを紹介するコーナーも
          あります。
           本丸から三の丸にかけての本城域は、大部分が皇居東御苑として無料で一般公開され
          ています(月曜・金曜定休)。上の地図に示した3ヶ所はこの東御苑の出入り口で、右から
          大手門、平河門、北桔梗門です。
           江戸城を最初に訪れたのは小中学生の頃でしたが、そのときと比べて大きく変わったの
          は、来城客に占める外国人の割合です。今ではおそらく来城者の7〜8割が外国人と思わ
          れます。日本人かな?と思っても、言葉は韓国語や中国語ということが多いです。考えて
          みれば、天皇や将軍の宮殿であるということは、ロンドンのバッキンガム宮殿やモスクワの
          クレムリンなどと同じであり、都会の数少ないオアシスとみれば、ニューヨークのセントラル・
          パークやベルリンのティーアガルテンなどと同じで、国の首都の観光地としては定番のもの
          といえます。
           中世城郭ファンとしては、興味深いのは場所ごとに手法や年代が大きく異なる石垣や、
          遺構としては珍しい3ヶ所の番所などでしょう。また、皇居といって思い浮かべる伏見櫓や、
          天守の代用とされた富士見櫓もみどころですが、どちらも普段は肉薄できないため、良い
          写真を撮るのが難しいです。もう1つのみどころは、大手町の高層ビル群とのマッチでしょう。
          近世と現代の対比的な風景は、よその城跡ではなかなか味わえないものだと思います。
           昨今、東京観光の目玉として江戸城天守を復興する計画がにわかに持ち上がっていると
          聞きます。しかし、最長でも19年しか存在せず、幕府がその後200年以上に渡って「無用」
          と判断してきた天守を再建することに、どれほどの意味があるのか分かりません。たしかに、
          外国人が多数訪れる江戸城に何かしら目玉となるものは欲しいところです。ただ、それは
          決して天守閣ではないと私は思います。むしろ、たとえば大奥を再建して、そこで将軍が
          何をしていたかを説明した方が、外国の方々にもウケるのではないかと思います(御殿の
          復興は今のトレンドにも合っていますし)。
           なお、訪れる際には、大手門から入って平河門から出るルートをひとつお勧めします。
          平河門には、死人や罪人を搬出する不浄門が併設されています。江戸時代には忌まれた
          門から堂々と出るというのも、なかなか乙なものでしょう。
           (追記)2013年の正月に天皇一般参賀へ行ってまいりました。普段は見られない江戸城
          の西の丸に入れる機会ということで、長い間並んだ甲斐はありました。伏見櫓や富士見櫓
          を間近で見られただけでなく、今日の江戸城内では比較的中世的な趣を残す道灌濠なども
          拝めて感動でした。

           
 三の丸大手門。
平河門。 
死人や罪人を搬出する不浄門が併設されていました。 
 右から桜田巽櫓、桔梗門、富士見櫓を望む。
 二重橋と伏見櫓。 
 同心番所。
百人番所。 
 大番所。
富士見櫓。 
中世江戸城の本丸にあたります。 
 数奇屋多聞櫓。
本丸大奥脇の石室。 
用途については諸説あります。 
 天守台。
 安政の大火(1859)のため、右側が焼け爛れています。
天守台から本丸を望む。 
手前が大奥にあたります。 
 汐見坂から本丸の石垣と水濠を望む。
 中世江戸城の大手にあたると考えられています。
 汐見坂〜梅林坂間の本丸石垣。 
平成十七年に修復工事がなされました。 
 伏見櫓近望。
 ここから下は正月一般参賀のときの写真です。
富士見櫓を下から。 
 蓮池堀と本丸西側石垣。
本丸多聞櫓。 
 道灌濠。


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