上狛環濠集落(かみこま)
 別称  : 上狛環濠、狛城
 分類  : 環濠集落
 築城者: 狛氏か
 遺構  : 環濠、井戸
 交通  : JR奈良線上狛駅下車


       <沿革>
           環濠集落の成立時期は詳らかでない。興福寺領狛野荘のうち南之荘の中心集落である「大里」
          に狛氏が下司職として居館(狛城)を築き、15世紀前半ごろに環濠が形成されたとみられる。狛は
          高麗に通じ、7世紀初頭に創建された高麗寺を起源とする地名とみられる。狛氏も朝鮮渡来系の
          狛宿禰の後裔ともいわれるが、確証はない。実際には、荘園の管理者が地名を冠したものと推測
          される。
           史料上は、嘉吉二年(1442)に狛下司が筒井氏の内紛に伴う合戦で戦死したとするのが初出と
          される。応仁の乱後の文明十七年(1485)、南山城の国人や農民らが宇治の平等院に集結して
          評定を開き、「国中掟法」を定めた。乱の一因ともなった両畠山氏の介入を排し、「三十六人衆」に
          よる自治を宣言するものである。狛氏はその1人として、いわゆる山城国一揆を指揮した。
           惣国一揆による統治は8年続いたが、やがて国人と農民の間に軋轢を生じた。さらに細川政元
          が将軍足利義材を廃した明応の政変への対応を巡って国人間でも対立し、明応二年(1493)に
          一揆は解体された。
           その後も狛氏は小規模な在地領主として存続し、永禄十一年(1568)に織田信長が上洛すると、
          狛秀綱は織田氏に従って300石余を安堵されている。本能寺の変後は名主としての性格が強く
          なり、子孫は宇陀松山藩織田家に仕え、その転封に伴い丹波柏原へ移り住んだ。


       <手記>
           国人だけでなく農民も自治運営に携わった山城国一揆を体現する環濠集落として知られ、今も
          環濠の名残や共同井戸の跡などが残っています。南辺の環濠沿いに説明板があり、集落の中央
          付近には当時の町割りを踏襲しているとみられる鉤の手もみられます。
           また、集落北西部の乾町には「大井戸」があり、この南東側に狛城(狛氏居館)があったとされて
          います。城砦としては特筆すべき点はとりたててありませんが、京と奈良の間にあって8年とはいえ
          自治を達成していた舞台として、興味深い故地であるといえるでしょう。

 南辺環濠脇の説明板。
環濠跡のようす。 
 共同井戸跡の1つ。
集落中央付近の鉤の手。 
 大井戸。


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