上永原城(かみながはら)
 別称  : 永原城
 分類  : 平城
 築城者: 永原氏
 遺構  : なし
 交通  : JR東海道本線野洲駅よりバス
       「永原住宅前」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           六角佐々木氏重臣永原氏の居城と考えられている。永原氏の出自には、藤原秀郷の後裔と
          するものと佐々木氏の庶流であるとするものの2説ある。前者は、秀郷子孫の瀬川俊行が近江
          国栗太郡に住し、その7代後の大炊助宗行が永原氏を称したとされる。後者では、佐々木経方
          の四男家行の子孫とされる。永原氏の諸系図では、六角政頼の子重賢(ないし高賢)が養子に
          入ったとされる。ただし、政頼についてはその実在が確認されていないため真偽は不明である。
           史料上は、15世紀初頭ごろから永原氏の活動が確認されている。永正十五年(1518)には、
          永原重秀が将軍家から独自に安堵状を得るまでに勢力を拡大した。永禄四年(1561)の将軍
          地蔵山の戦いでは、六角義賢配下の将として永原重隆が従軍し、討ち死にしている。
           永禄十一年(1568)の織田信長の上洛によって六角氏が滅ぼされると、永原氏も城を捨てて
          落ちていった。元亀元年(1570)、六角承禎(義賢)・義治父子が信長包囲網に参加して挙兵
          すると、織田家重臣佐久間信盛が永原に配された。
           天正元年(1573)、永原氏一族の永原飛騨介実治が織田氏に仕え、永原城主に返り咲いた。
          実治は永原伊豆守の子で、永原安芸守の養子となったとされるが詳しい系譜は明らかでない。
          同十年(1582)の山崎の戦いで実治は討ち死にし、弟の重治が家督を継いだ。翌年、甲賀衆の
          深尾清十郎が永原城主となった。城は、文禄年間(1592〜96)に廃城となったとされる。
           上永原城の北西500mほどのところに、徳川将軍家の宿所として建設された永原御殿がある。
          永原御殿も、永原氏の城館を利用したものと推測されている。上記の事象が、上永原城のもの
          か永原御殿のものかは、必ずしも確定していない。『日本城郭大系』では、家棟川の氾濫により
          永原氏が居城を移転させたのではないかと推測している。


       <手記>
           上永原城は、現在祇王小学校となっています。この小学校は、もともと城跡の北西にあったの
          ですが、近年移転したものです。学校建設前もグラウンドがあったものの、その周囲に土塁と堀
          があったそうです。
           城は、南東からの緩やかな傾斜の先端に位置し、眼前には江戸時代の朝鮮人街道が走って
          います。南の旧中山道と挟まれる場所にあり、交通を掌握できる要地であるといえます。古くは、
          永原御殿が永原氏の居城跡を利用したものとみられていましたが、近年ではこちらの上永原城
          が永原氏の城であったと考えられているようです。
           残念ながら遺構は消滅し、碑などもありません。

           


上永原城址(祇王小学校)。


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