洲崎館(すざき)
 別称  : 上ノ国洲崎館
 分類  : 平山城
 築城者: 武田信広
 遺構  : 堀跡、土塁
 交通  : JR津軽海峡線木古内駅よりバス
       「大留」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           長禄元年(1457)のコシャマインの戦いで、蝦夷三守護の1人上ノ国守護蠣崎季繁
          の客将であった武田信広は、和人軍の大将として活躍し、コシャマインを討ち取る功
          をあげた。戦後、季繁は主君安東政季の娘を養女とし、信広に嫁がせて蠣崎氏を継
          がせた。同年、信広は洲崎館を築いた。
           信広は、『新羅之記録』によれば若狭武田氏の武田信賢の子とされるが、伝えられ
          る信賢と信広の生年を比べると2人の年齢差は12年しかなく、実際のところその出自
          はほとんど不明である。季繁についても、同じく若狭武田氏一族とする説と、陸奥の
          南部武田氏庶流とする説がある。下北半島には蠣崎城を居城とする蠣崎氏がある。
          また、季繁の妻も政季の娘とされることから、2人は義理の親子であり、義兄弟でも
          あることになる。
           その後、信広は勝山館を築いて新たな居城とした。勝山館の築城時期は詳らかで
          ないが、館内に鎮座する館神八幡神社の創建が文明五年(1473)とされることから、
          このころまでの間と推測されている。
           洲崎館の廃城時期は不明だが、上ノ国の政・軍の機能が勝山館に収斂されていく
          なかで、館としては打ち捨てられていったのではないかと思われる。


       <手記>
           洲崎館は、日本海に面した小丘陵地帯の南端に位置しています。周辺の勝山館跡
          や花沢館跡と併せて、「上ノ国館跡」として国史跡に指定されています。3城館のなか
          ではもっとも影が薄い感じですが、唯一築城年がはっきりしている城館であるとのこと
          です。
           館跡は、現在砂館神社境内となっています。本殿背後の、館北辺と思われるライン
          に、土塁と堀跡が見受けられます。とくに北東隅付近では、丘の鞍部を利用した外堀
          と土塁に挟まれた内堀の二重の空堀となっているようです。
           館の西辺と思われる箇所にも、規模の大きな凹部があります。パッと見こちらも空堀
          のように思えるのですが、現地説明板には記載がなく、あるいは近年造成されたもの
          かもしれません。この凹部に付随して、南西隅付近にも土塁が見られます。
           総じてみると、緩やかな丘の中心部に居館を置き、周囲を土塁と堀で囲繞した簡単
          な構造の館城であったものと推察されます。
           なお、上の地図に載っているJR江差線は、今では残念ながら廃線となっています。

           
 夷王山山頂から洲崎館跡を望む。
城址碑と説明板。 
 砂館神社。
北辺の堀と土塁。 
 北辺の外堀跡か。
西辺の堀跡か。 
 南西隅付近の土塁。


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