勝山館(かつやま)
 別称  : 上ノ国勝山館、和喜館
 分類  : 山城
 築城者: 武田信広
 遺構  : 曲輪跡、堀、土塁、礎石群、井戸、墳墓
 交通  : JR津軽海峡線木古内駅よりバス
       「大留」バス停下車徒歩20分


       <沿革>
           洲崎館主武田信広によって築かれたとされる。築城時期については詳らかでないが、
          長禄元年(1457)のコシャマインの戦いには登場せず、また勝山館敷地内に鎮座する
          館神八幡神社の創建が文明五年(1473)とされることから、この間のことと推定されて
          いる。信広は若狭守護武田信賢の子で、蝦夷三守護の1人上ノ国守護の蠣崎季繁の
          娘婿(安東政季の娘で季繁の養女)となったと伝わる。ただし、伝えられる信賢と信広
          の生年を比べると、2人の年齢差は12年しかなく、実際のところ信広の出自はほとんど
          不明である。信広は、季繁の跡を継いで上ノ国守護となった。
           永正十年(1513)、蝦夷三守護の1つ松前守護の本拠地大館が、アイヌ酋長ショヤ・
          コウジ兄弟らに攻め落とされ、守護相原季胤や城将村上政儀が討ち死にした。信広の
          子光広は、機に乗じて大館を占拠し、三守護の任命権者である安東尋季に松前守護
          の兼任を追認させた。そもそもアイヌによる大館襲撃は光広の謀略であったとする説も
          あるが、真相は不明である。これ以降、蠣崎氏(武田氏)は大館を居城とし、上ノ国に
          は一族を置いたとされる。
           光広が死去すると、跡を嫡男義広が継いだ。勝山館には義広の弟高広が配された
          が、義広自身もたびたび勝山館に滞在して蝦夷地経略に勤しんでいた。
           『新羅之記録』によれば、享禄二年(1529)三月二十六日、アイヌの酋長タナサカシ
          が「上ノ国和喜」の館を攻めた。義広は、偽りの和議をもってタナサカシを誘い出し、
          賠償品の受け渡しの際に弓で射殺した。この「上ノ国和喜」の館は勝山館を指すもの
          とされ、松前に対する「脇」の館を意味すると考えられている。
           高広が世を去ると、その子基広が勝山館主を継ぎ、天文十四年(1545)に義広が
          亡くなると、蠣崎氏当主はその子季広が継いだ。基広は自身の地位に不満を抱き、
          同十七年(1548)に叛乱を起こした。季広は重臣長門広益を鎮圧に派遣し、基広は
          敗死した。後任の勝山館主には、季広の娘婿である南条広継が選ばれた。
           季広は、アイヌに対して宥和政策をとり、天文十九年(1550)にハシタイン・チコモ
          タインの2人の酋長を上ノ国に移住させ、アイヌ交易の窓口とした。
           永禄四年(1561)とその翌年、広継の妻(季広の長女)は実弟の蠣崎舜広と明石
          元広を相次いで毒殺した。夫広継に蠣崎家を継がせようと企んだものと推測される
          が、季広の怒りを買って夫婦ともども自害させられた。広継自身は無罪を訴え、自ら
          棺桶に入って水松を逆さに活けさせ、「この水松が根付いたら潔白の証拠である」と
          言い遺して絶食死したとされる。果たせるかな、水松は3年の後に完全に根を張り、
          「逆さ水松」の伝説となった。
           その後の勝山館については明らかでないが、少なくとも蝦夷開発の重要な拠点と
          して、代官所の役割は担い続けたものと推測される。江戸時代に入ると、上ノ国の北
          の江差が北前船の寄港地としてより発展するようになった。延宝六年(1678)、上ノ国
          の番所(檜山番所)は江差へ遷された。これにより、代官施設としての勝山館も、その
          歴史を終えたものとみられている。


       <手記>
           勝山館は、天の川河口の上ノ国町中心部を見下ろす夷王山系の中腹に位置して
          います。館跡は、周辺の花沢館跡や洲崎館跡と併せて、「上ノ国館跡」として国史跡
          に指定されています。そのなかでも、勝山館は発掘調査とそれに基づく一部復元や
          史跡公園化がなされ、上ノ国町随一の観光スポットとなっています。
           館跡へは、江差線上ノ国駅跡の大留バス停から歩いて登るか、車であれば背後の
          ガイダンス施設の駐車場まで登れます。当然、圧倒的に後者の方が訪城は楽で、私
          は駅構内の観光案内所の方にタクシーを呼んでもらいました。
           私が訪れた時は、残念ながらガイダンス施設は休館日でしたが、館跡内には解説
          がばっちり行き届いているので、施設に行けなくても、一般の観光客でも十分楽しめ
          ると思います。
           館は、山の中腹の小豆袋状になっている部分を利用し、前後を堀切で断ち切って
          要害としています。堀は、北面の大手・南面の搦手ともに最低でも二重に設けられて
          おり、なかなかに規模壮大です。搦手の堀切下には井戸跡があります。堀切の続き
          に貯水池を設け、そこに井戸やさらに上方から水樋で引いた水を溜めていたようです。
           搦手とガイダンス施設の間には、無数のアイヌ式(?)墳墓があります。わずかに
          こんもりとしたところに小さな目印の標柱が立てられているものがたくさんあり、全て
          1体ないし2体の遺骸が収まった墳墓なのだそうです。遺骸は、直伸したものと屈伸
          したものの2種類あり、後者が仏式で前者がアイヌ式とされているそうです。これは、
          館に出入りする人々のなかにアイヌ人がいたことを示していると考えられているそう
          です。そのことも十分興味深いですが、私としては居城クラスの城の背後に墳墓が
          数多くつくられていたという事実の方に驚きました。
           城内はほぼ単郭で、いくつもの段に区分された御殿形式になっています。搦手脇
          の城内最高所には前出の館神八幡神社跡があります。この神社は江戸時代まで
          同地で現役で、今も麓に移築されて現存しています。主だった建造物は城内下部の
          南半に集中しています。特筆すべきは、櫓門や庭園跡遺構が見つかっていることで、
          極北の地にあって実用だけではない「魅せる」部分にも配慮された城であったことが
          うかがえます。
           北東隅は3段の削平地となっており、ここに兵士の詰所や物見が置かれていたと
          推定されています。仮想敵がアイヌ諸部族ですから、この箇所が曲輪内でもっとも
          防禦を意識したところとなっているのは、当然といえば当然と思います。
           大手の二重堀切を出て少し下ると、荒神堂跡と呼ばれるスペースにでます。荒神
          堂は、謀叛を起こした蠣崎基広が討たれた後に亡霊となって出没したため、これを
          弔うために建てられたものだそうです。ですが、位置的に考えて、同所の第一目的
          は大手の出城&番所的なものだったものと推測されます。
           余裕があれば、間近にそびえたつ夷王山に登られることをお勧めします。山頂には
          夷王山神社があり、ここからは勝山館跡をはじめ、上ノ国町内から江差までを一望の
          下に収めることができます。夷王山はかつては医王山と書かれたらしく、山頂付近に
          武田信広が埋葬されたとする伝承もあるそうです。難点は、地元の方が「上ノ国じゃ
          なくて風ノ国と呼ぶ方が合ってるよ」とおっしゃっていた強風で、冗談ではなく立って
          いるのがやっとというほどでした。
           さて、勝山館は選地的には同じく蠣崎氏が居城とした大館とよく似ています。ただ、
          要害性という面からみれば、勝山館よりも優れているように思われる地は、天の川
          南岸をみるだけでもいくつかあるように感じられます。個人的には、信広がこの地を
          選んだのは、背後の夷王山と前面の天の川を同時に借景に抱くことができるという
          理由だったのではないかと推測しています。夷王山は、富士とまではいかないまで
          も、とても目につく美しい山容の山です。天の川も地域の主流であり、なかなか悠々
          たる河です。アイヌは、『アイヌ神謡集』にみられる通り、山河や海などの自然を深く
          崇拝する民族ですから、夷王山や天の川なども十分遥拝の対象となったのではない
          かと思われます。これらの山河を前に後ろに抱えたうえで、豪壮な殿舎をもつ城館を
          築くことで、アイヌに対して権威をより強くアピールしようとしたのではないかと、現地
          を訪れて感じました。
           最後に余談ですが、この勝山館は、私の記憶する限り最初は復元柵列を隙間なく
          ぴっちりと建て、それでは外に攻撃ができなくなるからあり得ないと学者先生連中が
          猛抗議して、結局建て直したという経緯があったと聞いています。たしかに私が訪れ
          たときには、逆に敵の矢が守兵に当たっちゃうんじゃないのかしらというくらい隙間が
          開けられていました。私も板塀でなく木柵であれば、隙間が空いていた方が実用的
          なような気はします。ただ、ぴっちり建てられていても、台座を置けば城内からの攻撃
          は問題なくできますし、敵に内部を覗かれないという利点もありますので、必ずしも
          どちらかが正解と決めつけるのは宜しくないのではないかと考えています。
           ですが、私がここで問題だと思うのはそこではなくて、じゃあ一体その改築費用は
          誰が出すのかというところです。当然ですが、復元費用は基本的に税金から賄われ
          ます。対して、復元に対して注文を付ける学者先生は、比率的にはほぼ一銭も出し
          ていません。それどころか、アドバイス料という名目でさらに税金からいくばくか頂戴
          しているかもしれません。そのうえさらに出来栄えが気に入らないからもう一度税金
          で建て直せとは、小生の感覚ではとても理解できません。もちろん、より正確に復元
          されるに越したことはありませんが、復元はあくまで復元であり、当時そのままには
          絶対にできません。いうなれば、現存していた時代を「推測」するための材料でしか
          ありません。研究を重ねるうちに、現行の復元では正しくなかった箇所が出てしまう
          のは当たり前のことで、その度に学者連中の自己満足のために建て直しを繰り返し
          ていたら予算がいくらあっても足りません。そこは、説明板を書き換えて「当時はこう
          復元しましたが、その後の研究で実際はこうだったと分かりました」と付け加えれば、
          その道のオタクでなくても十分理解できます。それをわざわざ自説に則るように建て
          直せというのであれば、せめてその予算はその方のポケットマネーから出されるのが
          筋だと思うのです。
           余談が長くなりましたが、勝山館は中世城館の整備例として嚆矢かつ丁寧なもの
          であることは間違いありませんので、残念ながらそう簡単に訪ねられる場所ではあり
          ませんが、北海道旅行を計画される方は、江差(リンク先は小生の江差観光記です
          ^^;)と併せてぜひご検討いただければと思います。

           
 洲崎館跡から勝山館跡を望む
 (中央の土道が見えてるあたりから右側)。
 右手奥の山が夷王山。
夷王山山頂から勝山館跡を望む  
(プロムナードのようになっているあたり)。 
 搦手の二重堀切(手前の植え込みが二重目の堀跡)。
搦手二重目の堀切跡と脇の空堀跡(左手の植え込み)。 
 搦手背後の墳墓群(小さな標柱が立っているところ全部)。
堀切下の井戸跡。 
 同じく水樋跡。
搦手から夷王山山頂を望む。 
 城内最後尾の館神八幡跡。
 中央が江戸時代の礎石で、
 現役時代のは右手にチラッと見えてる部分だそうです。
八幡神社跡向かいの建物礎石と階段跡。 
 柵列跡。
城内南部の建物群跡のようす。 
 城内北東隅の三段削平地。
櫓門跡から搦手方面を望む。 
 主殿(客殿)跡。
主殿付属の庭園跡。 
庭園跡に木柵が食い込んでいるのは、 
学者先生方は気にならないのだろうか。 
 主殿(客殿)前方の推定城代屋敷跡。
 城代屋敷を通らないと客殿にいけないというのは疑問が残ります。
馬屋跡。 
 大手の二重空堀。
大手下の荒神堂跡。 


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