金程殿山(かなほど)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 上杉氏か
 遺構  : なし
 交通  : 小田急線新百合ヶ丘駅徒歩15分


       <沿革>
           多摩周辺の古い地名を拾い集めて紹介しているブログサイト『谷戸めぐり』によれば、現在の
          金程小学校付近にあった山を「殿山」と呼ぶという。
           また、殿山の南東、万福寺と金程の間の峰上を小沢原といい、享禄三年(1530)に北条氏と
          と扇谷上杉氏が争った小沢原の戦いの古戦場とされている。同戦いについては小沢城の北側
          一帯で行われたとする説もあるが、現在ではこちらの万福寺周辺の方が有力視されている。
          小沢原の戦いと殿山の関連については不明である。


       <手記>
           古地図に照らし合わせてみると、殿山は南西の麻生川に向かって突き出た細長い半独立丘
          だったようです。小学校の北には「胴坂」という坂があったそうで、あるいは「城坂」の転訛とも
          考えられます。
           地勢的には在地領主の城館とする見方がオーソドックスなのでしょうが、個人的には小沢原
          の戦いにおける陣城という可能性を考えています。小沢原の古戦場については上述のとおり
          2説ありますが、関連する字の数や具体性、配置などを鑑みるに、やはりこちらの方が有力で
          あると思われます。小沢原の戦いでは、万福寺の住人中島隼人佐が北条方として参戦して
          います。小沢原の南麓には現在も中島家があり、隼人佐の後裔と推測されます。
           小沢原は殿山から谷を1つ挟んだ南東の丘上にあり、峰続きの北方を除く三方への眺望に
          優れています。小沢原の南には、北条勢が食事を摂ったとされる膳部谷戸の字があり、また
          小沢原の北のトンネル脇には、この戦いで初陣を飾った北条氏康が「勝った、勝った」と叫び
          ながら駈けあがったとされる「勝坂」があります。さらに千代ヶ丘小学校の北側には「将切」と
          いう小字があったとされ、これらを総合すると、南から兵を進めた北条勢は小沢原で上杉勢と
          衝突し、敗走を始めた上杉勢を追って、勝坂ついで将切と北上していったとするストーリーが
          完成します。その際、すでに城館があったか否かは分かりませんが、殿山に上杉勢が布陣
          していたとしても、不思議ではありません。

           
 殿山があった金程小学校。
小沢原古戦場比定地現況。 


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