小沢城(おざわ)
 別称  : 天神山城
 分類  : 山城
 築城者: 小沢重政か
 遺構  : 曲輪跡、土塁、空堀
 交通  : 京王相模原線京王よみうりランド駅徒歩10分


       <沿革>
           稲毛重成またはその子小沢小太郎重政によって築かれたと伝わる。元久二年(1205)、
          重成・重政父子は畠山重忠の乱に関与した罪を着せられ、北条時政の命により殺害された。
          『吾妻鏡』や『地誌編輯取調簿』によれば、稲毛父子の遺領は一族の小沢左近将監信重が
          相続したとされる。
           正平六/観応二年(1351)、足利尊氏・直義兄弟の争いのなか、小沢城は尊氏方の高麗
          彦四郎経澄によって焼き払われたとされる。応安年間(1368〜74)ごろには、小沢左衛門尉
          国高なる人物がいたとされる。『新編武蔵国風土記稿』によれば、矢野口村の口伝として、
          「小沢左衛門の住せし所なりと云」とある。小沢左衛門については国高と同一人物とも考え
          られるが、詳細は不明である。
           享禄三年(1530)七月六日、北条氏綱と扇谷上杉朝興の間で小沢原の戦いが勃発した。
          小沢原の場所については小沢城北側とする説と、橘樹郡金程村と都筑郡万福寺村の間と
          する説(金程殿山の項を参照)があり、現在では後者が有力視されている。氏綱の嫡男
          氏康の初陣でもあったこの戦いに際して、北条勢が小沢城に陣を置いた、あるいは上杉勢
          が一時小沢城を奪ったなどともいわれるが、明確に小沢城の存在を記した史料はない。
           したがって、廃城時期も不明である。

       <手記>
           小沢城は、三沢川に沿って細長く伸びる尾根上のいくつかのピークを利用した城で、南麓
          には菅仙谷の谷戸が入り込んでいます。天神山と浅間山という2つの峰にまたがって築かれ、
          天神山の西と浅間山の東に堀切を穿って城域を区切っています。とくに天神山西の堀切は
          規模も大きく、良好に残っています。
           居住エリアや大手は、南の菅仙谷に面していたと推測され、2つの峰の南側に削平地が
          集中しています。ただ、居館と思しき麓近くの曲輪以外は、総じて曲輪面積はとても小さい
          といえます。天神山の西にも堀切を隔てて馬場跡と呼ばれるなだらかに削平された峰があり、
          主城域ではないものの外郭をなしていると思われます。山上エリアではこの馬場跡が一番
          広いため、ここに城址碑や城址説明板、休憩所などが設けられています。
           他に曲輪で着目すべきは、物見台と呼ばれる浅間山南側の小区画です。浅間山より一段
          低い位置にあり、物見台にしてはやや不自然に感じられます。私は、むしろ狼煙台なのでは
          ないかと推測しています。狼煙は、背景に青空よりもなんらかの遮蔽物を背負っていた方が
          遠方から視認しやすくなります。そこで、この物見台は浅間山を背景に、稲毛氏のころなら
          南の升形山城へ、南北朝期なら鎌倉へ、後北条氏時代なら玉縄城あるいは小机城へ、
          危急を伝えていたのではないかと考えています。
           小沢城には十数年ほど前にも訪れているのですが、その間に里山保存会が結成された
          ようで、独自に説明板の設置や下草刈りなどを行っているそうです。そのため、以前よりも
          格段に訪城がしやすくなりました。
           城へは稲田堤駅からも尾根伝いに登れますが、京王よみうりランド駅が最寄りと思われ
          ます。駅前から線路沿いに東へと進むと、穴沢天神社の参道があります。穴沢天神から、
          天神坂と呼ばれる重政が参拝に使用したとされる坂を登ると、先述の馬場跡にたどり着く
          ことができます。

           
 小沢城址碑。
天神山の山頂のようす。 
主郭跡か。 
 天神山西側の堀切。
同上。 
 天神山東側の井戸跡。
天神山と浅間山の間の土橋状の尾根。 
奥に前出の井戸跡が見えます。 
 浅間山山頂のようす。
浅間山南側の曲輪。 
 浅間山南側の伝物見台。
南麓の曲輪を望む。 
居館跡か。 


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