南城(みなみ) | |
別称 : 南館、金窪南城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 大畠昌広か | |
遺構 : 土塁、堀跡 | |
交通 : JR高崎線神保原駅徒歩40分 | |
<沿革> 大畠長門守昌広によって明応元年(1492)に築かれたと伝わる。大畠氏の出自や 昌広の事跡については不明である。城地には、元久二年(1205)創建の満願寺が あったとされる。満願寺には、新田義貞が鎌倉幕府打倒の兵を挙げた際に、勝利を 祈願して建造した「勝軍不動堂」があったとされる。 大永年間(1521〜27)ごろ、斎藤別当実盛の子孫を称する斎藤盛光が金窪城主 となったとされる。満願寺は、天文九年(1540)に斎藤氏によって崇栄寺と改名され たとされ、この間に大畠氏は斎藤氏に駆逐されたものとも考えられる。 南城という名称から、その後も金窪城の南の出城として機能し続けたものと推測 されるが、確証はない。天正十年(1582)の神流川の戦いに際し、崇栄寺は兵火に 呑まれ焼失した。このとき金窪城も落城し、焼け落ちたまま一時廃城となったといわ れていることから、遅くともこのときに南城も廃されたものと思われる。 天正十八年(1590)に徳川家康が関東へ入国すると、徳川家臣川窪信俊が金窪 城跡に陣屋を構えた。信俊は、武田信玄の異母弟川窪信実の子である。崇栄寺は、 信俊によって崇栄山陽雲寺として再興された。陽雲寺とは、信俊の養母で信玄の 正室である三条夫人の法名からとったものとされる。現地の説明板等には、信俊が 三条夫人を伴って入封したように書かれているが、三条夫人は元亀元年(1570)に 亡くなっているため事実と合わない。 <手記> 南城跡とされる陽雲寺は、旧中山道の南側に位置しています。戦国期の街道は 江戸時代と異なり、寺の北東でほぼ直角にカーブしていたとされ、南城は金窪城と この屈曲部を挟み込む形となっています。 現在、陽雲寺の北辺から東辺にかけて、土塁が残っています。とくに北辺の北東 隅付近では空堀を伴っており、明らかに寺には不要な城館の遺構であると思われ ます。また、東辺の北東隅付近では隅欠けの折れが認められ、鬼門除けとも考え られます。ただ、ここは境内の内側にあたるので、何らかの寺の造作である可能性 も捨てきれません。 城跡であることはほぼ間違いありませんが、築城の経緯や城主についてはやや 不透明感がぬぐえません。上述のとおり新田義貞が戦勝祈願をしたという故事に あやかって、ゲンを担いで寺を城砦化したり、あるいは誰かが居住したりしたという 推測は十分成り立ちます。ただ、あくまで「南城」であり、金窪城に対する南の支城 であることは明白ですから、こちらがメインであったということは、まずなかったもの と考えられます。 |
|
旧中山道付近から陽雲寺境内を望む。 | |
北辺の土塁。 |
|
北辺の土塁北東隅付近。土塁と空堀。 | |
東辺の土塁北東隅付近の隅欠け。 鬼門除けか。 |