金窪城(かなくぼ) | |
別称 : 太ヤ(王篇に邪)城、金窪陣屋 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 加治家季か | |
遺構 : 土塁 | |
交通 : JR高崎線神保原駅徒歩40分 | |
<沿革> 武蔵七党の1つ丹党の庶流である加治家季によって治承年間(1177〜80)に築かれた とする伝承があるが、確証はない。家季は、秩父(丹)基房の子高麗経家の子であるが、 その本貫地は現在の飯能市周辺とされ、上里町からはかなり離れている。したがって、 家季築城説には疑問が残る。経家の長兄直時が金久保の西の勅使河原に入植したこと からの敷衍とも考えられるが、詳細は不明である。 異説として、元弘年間(1331〜33)に新田義貞が築城し、その家臣畑時能が居城した ともいわれる。時能は、いわゆる新田四天王に数えられる勇将であるが、興国二/暦応 四年(1341)に伊知地の戦いで討ち死にした。 明応元年(1492)、大畠長門守昌広が現在の陽雲寺の境内に南城を築いたと伝わる。 「南城」とは金窪城の南の支城を意味するものと考えられることから、昌広と金窪城の間 にも何らかの関係があると思われる。ただし、大畠氏の出自や昌広の事跡について詳細 は不明である。 その後、経緯は不明だが、大永年間(1521〜27)ごろに斎藤別当実盛の子孫を称する 斎藤盛光が居城したとされる。金窪城の存在を確認できるのは、この斎藤氏の城として である。金窪城斎藤氏は、盛光の後定光・定成・定利と続いた。 天正十年(1582)に本能寺の変が起こると、上野に進出していた織田家重臣滝川一益 を駆逐するため、北条氏直が2万の大軍を率いて北上してきた。これに対し一益は、機先 を制するため六月十八日に金窪城と川井城(群馬県玉村町)を攻め落とした。定利は討ち 死にしたとされるが、はっきりしない。また、このときの金窪城主の名を斎藤光透、その父 を定盛とする文献もある。翌六月十九日に行われた神流川の戦いは、実際には神流川を 挟んで対峙したわけではなく、主戦場は金窪城周辺の金窪原であったとされる。この戦い によって金窪斎藤氏は没落し、金窪城も荒廃した。 天正十八年(1590)、徳川家康が関東へ入国すると、川窪信俊が武蔵国比企・賀美郡 に所領を与えられ、金窪城址に陣屋を設けた。信俊は、武田信玄の異母弟川窪信実の子 である。元禄十一年(1698)、信俊の孫武田信貞(川窪から復姓)は、丹波国に加増転封 となり、これによって金窪陣屋も廃止となった。 <手記> 金窪城は、忍保川に面した沖積地上の平城です。江戸時代の中山道は金窪村を横断 し、神流川を渡って新町宿へと通じていました。ただし、新町宿を通るルートは承応二年 (1653)に整備されたもので、それまでの街道は陽雲寺の東で北に折れ、金窪城の西を 北上して角渕(玉村町)へ渡っていました。新町宿成立後のこのルートは三国街道と呼ば れ、越後へと至る現在の三国街道の旧路と重なるものと推測されます。したがって、金窪 城は街道が南から西へと回る内側に位置し、さらに神流川や烏川の渡河点を扼する要衝 にあったことがうかがえます。 現在、萠美保育園の北西裏手に城址公園が整備され、その一角に城址碑と2つの説明 板があります。遺構としては部分的に土塁が残っていますが、全体の縄張りを把握できる ほどのものではないようです。そもそも土塁の残存箇所について、2枚の説明板ではそれ ぞれ「4カ所」「三ヵ所」としており、どこまでが遺構なのかも判然とはしていないようです。 とりあえず確実と思われるのは、当の城址碑の背後にある土塁で、充分みごたえのある 高さと長さを備えています。 この城址公園は、集落の細い路地を入った分かりにくいところにあります。公園へ至る には、まず旧中山道を歩くと見つかる城址入口の標柱に従って北へ折れ、萠美保育園を 目指します。保育園の角にも「館址入」と書かれた小さな石柱がありますが、案内の役に は立ちません。保育園の1ブロック北か西の路地を入ると、公園へ辿りつけるはずです。 |
|
金窪城址石碑と2枚の説明板(石碑の左右)。 |
|
石碑背後の土塁。 |
|
保育園角の「館址入」石柱。 |