金鑵城(かなつるべ)
 別称  : 金釣瓶城
 分類  : 平山城
 築城者: 中村氏か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : JR加古川線河合西駅徒歩20分


       <沿革>
           赤松家臣中村氏の築城と伝わる。中村氏は武蔵七党の一つ丹党の流れを汲むとされ、
          鎌倉時代に播磨国宍粟郡三方西郷の地頭職を得て下向していた。室町時代に入って
          赤松氏が播磨守護となるとこれに従ったが、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で主家と共に
          一度没落した。赤松旧臣の復興運動により、赤松家は赤松政則を以て長禄二年(1458)
          に再興されたが、その中心人物の一人として中村貞友の名がみられる。他方で、『播陽
          古城記』では長禄年間(1457〜60)の金鑵城主を中村正満としている。
           政則は赤松氏の勢力挽回に奔走したが、文明十五年(1483)に山名氏との戦いで大敗
          すると、有力家臣の一人である小寺則宗が他の有力被官を誘って赤松氏の当主交代を
          画策した。同調した重臣に貞友の次代とみられる中村祐友がおり、金鑵城は彼らのころ
          までには築かれていたと推測される。
           天文八年(1539)、理由は不明ながら、赤松政村(晴政)が中村与次郎の西河合領を
          没収して別府源三郎に与えた。天文(1532〜55)の初めごろ、金鑵中村氏は別府九郎に
          攻め滅ぼされたとされる。その別府氏も、赤松氏重臣・別所氏に滅ぼされたといわれる。
          その後の金鑵城については定かでない。


       <手記>
           加古川西岸の丘陵地帯の一角に築かれた城です。周辺の城館では最も高所に位置
          するため、地域の中核的な要害であったと推察されます。
           現在は夢の森公園となっており、北東麓の堀井城跡と共に史跡公園として丁寧に整備
          されています。金鑵城のL字型の主郭には土塁や木柵、冠木門、木橋などが建てられ、
          建物跡が地表復元されているほか、井戸がイメージで復元されています。伝承によれば、
          金の釣瓶で井戸水を組み上げていたのが城名の由来だそうです(さすがに純金とは思え
          ないので、金属製ということでしょうか)。
           また、北東の尾根先には模擬櫓が建っていますが、現在は立入不可のようです。主郭
          の付け根側には堀切を挟んで西曲輪があり、城館遺構ではなく竪穴住居跡が地表復元
          されています。すぐ脇に駐車場が作られているので、曲輪感はありません。
           播磨中村氏は赤松氏の重臣ながら系譜や事跡には不明な点が多い一族といえます。
          国内に所領が散在し、多くの分家を生じていたようで、金鑵中村氏もその一家であったと
          考えるのが妥当でしょう。

 小堀城跡から金鑵城跡を望む。
主郭の木橋と土塁、木柵。 
開口部は虎口ではないようです。 
 主郭堀切と木橋。
堀切のようす。 
 主郭のようす。
同上。 
 主郭虎口と模擬冠木門。
建物跡。 
 模擬井戸。
主郭からの眺望。 
 模擬櫓。 
西曲輪の竪穴住居跡。 
 北側の谷筋。


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