金子城(かねこ) | |
別称 : 金子山城、 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 金子広家 | |
遺構 : 削平地、堀跡、土塁跡 | |
交通 : JR予讃線新居浜駅徒歩25分 | |
<沿革> 武蔵七党の1つ村山党の庶流金子家忠は、源頼朝に従って功を挙げ、伊予国 新居郡などに所領を得た。家忠の孫広家は新居郡に下向し、築いた城と領地に 金子の名を付けた。 室町時代に入ると、伊予国の支配権をめぐって河野氏と細川氏が争ったが、 金子氏の動向については詳らかでない。大永二年(1522)に、伊予国宇摩郡の 分郡守護であった細川野州家が備中から石川伊予守通昌を宇摩・新居両郡の 領主として高峠城に入れると、金子氏はその被官となった。 天正六年(1578)に土佐の長宗我部元親が白地城を奪取したころには、石川 家中の実権は金子元成・元宅父子が握っていた。元宅はいち早く元親に人質を 差し出して、長宗我部氏の勢力拡大に大きく貢献した。 天正十三年(1585)に羽柴(豊臣)秀吉が四国平定に乗り出すと、元宅は石川 家中の意見を長宗我部方での参戦にまとめ、金子城を弟の元春に預け、自身は 高尾城に拠った。元春らの奮戦も空しく、金子城は豊臣方の小早川隆景に攻め 落とされ、元宅も野々市原で野戦に臨み、討ち死にした。戦後、伊予国は隆景に 与えられたが、城は復興されることなくそのまま廃された。 <手記> 金子城は、新居浜市から西条市にまたがって横たわる独立山塊の北東端の 峰に築かれています。城山全体が滝の宮公園になっていて、車なら南西麓から 城跡付け根の尾根筋の駐車場まで上がることができます。 公園化により、遺構は残念ながらあまりはっきりしません。四阿のある最高所 と、展望台のあるその尾根先の2段の削平地は、おそらく城の曲輪跡と思われ ます。四阿のある上段がおそらく主郭で、その脇の生け垣にぐるりと囲まれた スペースに、なぜか非常に読みづらい状態で城址碑と城址標柱が立てられて います。 よくよく両曲輪の周囲を見てみると、切岸と思われる斜面や堀跡のような地形 も散見されます。ただ、公園整備にはかなり重機が入っているようなので、どこ までが遺構なのかは留保が必要でしょう。 |
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城址碑。 | |
城址標柱。 | |
四阿のある最高所の削平地。 主郭跡か。 |
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展望台のある1段下の曲輪。 | |
展望台からの眺望。 | |
切岸か。 | |
切岸と堀跡か。 | |
堀跡か。 |