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北条氏館(ほううじょうし) |
| 別称 : 金沢館 | |
| 分類 : 平城 | |
| 築城者: 北条実時か | |
| 遺構 : なし | |
| 交通 : 京浜急行金沢文庫駅徒歩15分または、金沢 シーサイドライン海の公園柴口駅徒歩12分 |
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<沿革> 鎌倉時代の北条氏の有力分家である金沢流北条氏の居館とされる。金沢家は、3代執権・ 北条泰時の異母弟・実泰が父・義時の遺領から武蔵国六浦荘を与えられたことにはじまる。 ただし、実泰は実母で義時後室の伊賀の方が同母兄の政村を後継に据えようとしたとして 流罪に処されたため(伊賀氏の変)、精神を病んで27歳で出家し、跡を10歳の嫡男・実時が 継いだ。そのため、実泰が六浦荘へ赴いたかは定かでなく、実時を金沢家の実質的な初代 とする向きも根強い。 金沢に屋敷が建設された時期については不明だが、称名寺は正嘉二年(1258)に実時が 居館の敷地内に建てた持仏堂(阿弥陀堂)が起源とされており、このときまでには存在した ことになる。実時は、文永の役の経て建治元年(1275)に引退して金沢の屋敷へ移り住み、 金沢文庫の基礎を築いて翌二年(1276)に没した。 実時の子・顕時は9代執権・北条貞時の信任が厚く、顕時の子・貞顕は貞時の子・高時の 後継として、正中三年(1326)に15代執権に就任した。しかし、内管領の長崎氏と対立する 外戚の安達氏らが一斉に出家するなど一触即発の事態に窮し、わずか10日で職を辞して いる。 元弘三年(1333)の鎌倉幕府滅亡に際して、貞顕の嫡男・貞将は巨福呂坂で新田義貞軍 と激しい攻防戦を繰り広げ、最期は嫡子・忠時らと共に突撃して壮烈な討ち死にと遂げたと される(『太平記』)。貞顕は高時に従って東勝寺に移り、自刃した。貞将の弟・貞冬も、元弘 元年(1331)の赤坂城の戦いで幕府軍の大将を務めるなど奮戦したが、やはり鎌倉で金沢 一族と共に散ったものとみられている。 鎌倉幕府および金沢流北条氏の滅亡後も、称名寺と金沢文庫は存続したが、次第に衰退 を余儀なくされた。 <手記> 称名寺は江戸時代に徳川家の下で再興され、境内は国の史跡に指定されています。広い 境内には金堂や仁王門、浄土式庭園の阿字ヶ池などが並び、閑かで幽厳な景色を醸出して います。 金沢家の屋敷は池の北西に隣接する芝生のあたりにあったと推測されており、比定地の 奥には顕時・貞顕父子の墓廟もあるそうです。夏の盛りとてあまりに蒸し暑く、そこまで行き ませんでしたが^^; 比定地の西側には細尾根が張り出し、そこには「中世の隧道」が掘られていて、トンネルの 向こうが金沢文庫跡と推定されています。現在は神奈川県立金沢文庫が建っていますが、 もともとは昭和初期に図書館として「復興」されたもので、今日では郷土博物館となっている ものの、中身は別物と考えた方がよさそうです。とはいえ金沢北条氏歴代の肖像画(国宝) や運慶派の仏像群など、特筆すべき収蔵品も少なくありません。 金沢文庫駅から釜利谷方面へ谷戸を分け入ると青ヶ台城山があり、金沢右馬助の居跡と 伝えられています。金沢流北条氏で右馬助を称したのは貞冬ですが、それ以前からの詰城 があったとも考えられます。ちなみに現在は「かなざわ」と読まれますが、当時は「かねさわ」 で、また当人たちが金沢を名字としたことはないようです。 |
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| 称名寺境内。 | |
| 称名寺金堂。 | |
| 阿字ヶ池と奥に仁王門。 | |
| 中世の隧道。 | |
| 神奈川県立金沢文庫。 | |