高丸城(たかまる)
 別称  : 観音寺城、景全城
 分類  : 平城
 築城者: 香川景全か
 遺構  : 城門、堀跡
 交通  : JR予讃線観音寺駅徒歩10分


       <沿革>
           天霧城主香川之景の弟・香川景全の居城とされる。そのため景全城の別称があるが、景全が
          築いたのかは定かでない。また景全は観音寺又五郎とも呼ばれた。
           土佐の長宗我部氏の勢力が讃岐へ及ぶと、景全は兄に講和を提言し、両家の仲立ちに努めた
          とされる。天正十三年(1585)に羽柴秀吉が長宗我部氏を降すと、香川氏は所領を失い、景全も
          観音寺を去ることとなった。高丸城には羽柴氏(豊臣家)の与力として上坂丹波守が1万石で入り、
          これのち観音寺城と呼ばれるようになったともいわれる。
           関ヶ原の戦いの後は高松藩主生駒家に仕え、丹波守の子とみられる上坂勘解由は同家家老
          を務めた。しかし、寛永十七年(1640)に生駒騒動の責任者の1人として幕府から切腹を申し付け
          られ、生駒家も改易となった。遅くともこのときまでに、観音寺城は廃城となったものとみられる。


       <手記>
           高丸城は現在の観音寺市殿町にありました。住宅地の一角のひがし児童公園に城址碑が建て
          られており、そこから南東に伸びる細い更地(以前は耕地だったようです)は堀跡とされています。
          また、更地の南東端から殿町交差点にかけて直角に交わるブロックも堀跡のように見えるほか、
          公園北側の労働基準監督署から西側のブロックもかつては更地だったようで、やはり堀だったと
          みれば、方形の主郭の東半がコの字型として外郭のラインを留めていると考えられるのではない
          でしょうか。
           さらに、監督局の北東向かいの一心寺には、観音寺城の城門が山門として移築されています。
          一応、江戸時代までは存続していたとされ、規模的にも妥当な遺構と外郭線ではないかと思われ
          ます。

           
 ひがし児童公園の城址碑。 
公園から南東に伸びる更地。 
堀跡とされています。 
 移築城門とされる一心寺山門。
同じく表から。 


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