高松城(たかまつ) | |
別称 : 玉藻城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 生駒親正 | |
遺構 : 石垣、堀、天守台、虎口、土橋 | |
交通 : 高松琴平電鉄琴平線高松築港駅または JR予讃線・高徳線高松駅下車 |
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<沿革> 天正十五年(1587)、戸次川の戦いでの失態により讃岐国主仙石秀久が改易されると、 生駒親正が讃岐一国17万6千石に封じられた。親正はまず引田城に入ったが、国の東に 寄りすぎているうえに発展性に乏しかったため、聖通寺城へ移った。しかしここも讃岐一国 を治めるには適地とはいえず、当時「箆原(野原)」と呼ばれていた海辺に新しく築城する ことにした。 普請は翌天正十六年(1588)に始まり、同十八年(1590)に完成したとされる。高松とは もともと屋島の南にある喜岡城の別称および周辺地名から援用されたものであり、現在も 高松町の住所表記や琴電古高松駅・JR高徳線古高松南駅などとして残っている。また、 雅称の玉藻城は高松沖を玉藻浦と呼んでいたことに因むもので、柿本人麻呂が『万葉集』 で「玉藻よし」と詠んだのがはじまりとされる。 生駒氏は関ヶ原の戦いで親正が西軍に属したものの、嫡子一正が東軍で活躍したこと から、所領を安堵された。しかし、4代高俊が生駒騒動を起こしたため、寛永十六年(1639) に生駒家は出羽国矢島1万石に減封された。 高松領は一旦天領となり、城番が置かれたが、寛永十九年(1642)に松平頼重が東讃 12万石で高松藩を再興した。頼重は水戸黄門こと徳川光圀の同母兄で、頼重の母親が 懐妊したとき、父親の徳川頼房はまだ正室をもっていなかったため、極秘裏に出産・養育 されていた。庶子ということで水戸藩は継がず、高松に別家を興したものである。 寛文十一年(1671)、頼重は高松城の大改修に着手した。城の北東に北の丸と東の丸 を増築し、南面中央にあった大手口を南東端の太鼓門と旭橋に移した。3層3階であった 天守を南蛮づくりの3層5階に改築したのもこのときとされる。現存する着見櫓は、延宝 四年(1676)に完成した。 以後、高松藩松平家は11代を数え、明治維新を迎えた。 <手記> 日本三大水城に数えられる高松城は、堀に海水を引き入れ、本丸は内堀の中に小島 のように浮いていました。しかし、今では琴電高松築港駅の構内と地続きになっていて、 このラインより西側の城域は消滅してしまっています。駅構内からは、本丸と二の丸を 結ぶ鞘橋(廊下橋)や、天守台の石垣を見ることもできます。 天守台には2006年まで頼重を祀った玉藻廟がありましたが、石垣の解体修復工事に 伴い撤去されました。将来の天守復元もにらんで調査も行われ、礎石などが地表復元 されています。 玉藻公園には、現存櫓として着見櫓と艮櫓の2基があります。艮櫓はその名に反して 丑寅(北東)ではなく南東隅にありますが、これはもともと東の丸北東隅にあったものを 移築したためです。他方の着見櫓は、その端正な姿から現在の高松城址のシンボル的 な存在となっています。付属するやはり現存の付櫓、渡櫓および水の手御門とともに、 将軍家御連枝松平家の地位の高さをうかがわせます。着見櫓下の堀は、普段は乾いて いますが、満潮時には海水が流入し、水の手御門外の石段まで浸かるそうです。 三の丸には、大正時代に建てられた松平家旧別邸の「披雲閣」が移築されています。 また、三の丸入口の桜門を抜けたところには、蔀の役割を果たした一文字石垣が残って います。 高松城には、だいぶ前から天守の復元構想があるそうです。古写真を見ると、高松城 天守はややずんぐりした印象を受けますが、実際には四国では最大規模だったそうです。 ただでさえ四国には現存12天守のうち4つが集まっていて、さらに近年4層4階の大洲城 天守が復元されています。そのうえ南蛮造で1重目が天守台からはみ出る高松城天守 が再建されるとなれば、とても夢のある話だと思います。 |
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本丸天守台。 | |
本丸と二の丸を結ぶ鞘橋。 | |
天守台内部のようす。 | |
天守台から鞘橋と二の丸を望む。 | |
本丸の地久櫓跡。 | |
二の丸鉄門跡。 | |
鉄門外の内堀と海を結ぶ水路。 | |
左から着見櫓、付櫓、水の手御門、渡櫓。 | |
三の丸の披雲閣。 | |
三の丸桜門跡。 | |
桜門を抜けた先にある一文字石垣。 | |
艮櫓。 | |
太鼓門跡と艮櫓。 | |
太鼓門枡形にある埋門。 | |
おまけ:着見櫓のライトアップ。 | |
同じく艮櫓のライトアップ。 |