柏木城(かしわぎ) | |
別称 : 柏木ノ森城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 蘆名氏 | |
遺構 : 曲輪、石塁、土塁、堀、虎口 | |
交通 : JR磐越西線喜多方駅からバスに乗り、 「北塩原郵便局前」下車徒歩15分 |
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<沿革> 天正十二年(1584)ごろに、蘆名氏によって築かれたとされる。この年、北では伊達政宗が家督を 継いで外交方針を転換し、蘆名家との同盟が破棄された。柏木城は、これを受けて伊達氏への備え として築かれたとみられている。『探訪ブックス 東北の城』によれば、築城時には三瓶大蔵が城主を 務めていたとされる。 天正十三年(1585)に政宗が穴沢氏を攻め滅ぼして桧原城を築くと、柏木城は対伊達の最前線と なり、同十五年(1587)に佐竹義重の次男・義広が養子に入って家督を継ぐと、佐竹氏の指導下で 大きく改修されたものと推察される。 天正十七年(1589)の摺上原の戦いでは、原田宗時率いる別動隊が桧原城から後方攪乱として 出撃しているが、柏木城で戦闘があったかは定かでない。戦いから間もなく義広が実家へ逃れて 蘆名氏が滅亡すると、柏木城は意義を失い廃されたものとみられている。 <手記> 柏木城は大塩の集落を北東麓に控える稜上に位置しています。城山自体は西向きで、仮想敵の 伊達氏に大して逆を向いているようにも感じますが、大塩は桧原地域から大塩峠越えと細野峠越え の2ルートが合流する地点であったとみられ、また当時は城の南北を2筋の街道が通っていたという ことで、こうした交通上の理由も選地の面で重要であったのでしょう。 訪城の際は北塩原村活性化センター前に駐車でき、そこに説明板も建っています。比高100mほど のハイキングになりますが、登山道はきちんと整備されているので労苦はありません。城内も順路が 設けられているので、良質な遺構をぐるっと1周見学できます。 特徴としては、石塁が随所に用いられている点と、やはり弱点の東側を補強するため堀切や馬出し、 竪堀といった防御施設が多く施されている点が挙げられます。どちらも蘆名氏単独の技術で整備した ものとは思えず、かといって伊達氏や、ましてその後の蒲生氏・上杉氏が柏木城をわざわざ取り立てた とは考えにくいため、義広の実家・佐竹氏の指導によるものとみるのが妥当でしょう。そのため、中世 とも近世ともいえない、ちょうど端境期のような技巧と規模をもつ城跡が、今日に残ったものと評価でき ます。 |
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南西端の登城口。 | |
その一つ1つ上段の曲輪。 | |
同曲輪奥の大手虎口。 | |
大手虎口の枡形と石塁。 | |
大手枡形を上手から。 | |
主郭下の帯曲輪。 | |
帯曲輪に付随する環状石塁。 用途は不明です。 |
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主郭部東側の堀切。 | |
堀切越しに帯曲輪と主郭の土塁を望む。 | |
堀切東側の馬出し。 | |
馬出しの空堀。 | |
東尾根の曲輪の通路状土塁。 | |
東尾根の曲輪のようす。 | |
東尾根の曲輪の土塁。 | |
東尾根の曲輪北東の2本の竪土塁および竪堀。 | |
東尾根の曲輪から馬出し、主郭下の帯曲輪、 主郭の土塁を望む。 |
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主郭土塁外側の石塁。 | |
主郭の虎口。 | |
主郭虎口の枡形。 | |
主郭土塁内側の石塁。 | |
主郭土塁と通路状の土塁。 | |
主郭土塁上のようす。 | |
主郭内の土塁で囲まれた区画。 | |
主郭中心部の石塁。 | |
主郭西辺の土塁。 | |
同上。 | |
主郭西辺の空堀。 | |
空堀の土橋。 | |
主郭西側の馬出し状の曲輪。 | |
馬出し西下の曲輪。 | |
同曲輪の虎口。 |