糟屋氏館(かすやし) | |
別称 : 糟屋左衛門尉有季居跡、丸山城、千鳥ヶ城、糟屋城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 厚木氏 | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、堀跡、虎口跡 | |
交通 : 小田急線伊勢原駅よりバス 「粟窪入口」バス停下車 |
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<沿革> 『新編相模国風土記稿』に「糟屋左衛門尉有季居跡」として紹介されている。糟屋氏は、 藤原冬嗣の三男良方の子元方が、相模国大住郡糟屋荘の荘司となったことにはじまると される。糟屋権守盛久の子左衛門尉有季は源頼朝に従い、源義経追討に際して堀景光 を捕らえ、佐藤忠信を攻めて自害に追い込む功を挙げた。しかし、建仁三年(1203)に比企 能員の変が起こると、能員の娘婿であった有季も巻き込まれ、比企一族とともに北条義時 の軍と戦ったのち自害した。 有季の子の有久、有長、久季は、いずれも承久三年(1221)の承久の乱で宮方につき、 幕府軍と戦って討ち死にしたとされる。ただ、久季については生き延びたともされる。その 子孫が賤ヶ岳七本槍の1人糟屋武則ともいわれるが、定かではない。 また、横山党の横山経兼の子(または孫)の次郎盛経も、大住郡糟屋に入って糟屋氏を 称したとされる。こちらの糟屋氏の館であった可能性もあると思われるが、詳細は不明で ある。横山党は建暦三年(1213)の和田合戦で壊滅したため、こちらの糟屋氏も、このとき に滅んだか逐われたと推測される。 いずれにせよ、両糟屋氏とも13世紀初頭には滅亡ないし衰退していたものとみられる。 だが、昭和五十九年(1984)に周辺の区画整理に先立って行われた発掘調査では、室町 時代後半のものとみられる遺物が発見された。また、検出された城郭遺構も、虎口や横矢 折れの堀などやはり室町時代後期と推測されるものであった。これらの結果から、糟屋氏 衰退後も扇谷上杉氏や家宰太田氏らによって取り立てられたのではないかと考えられる ようになった。 ただし、その場合も後北条氏時代まで継続使用されていたのかは不明である。城域に ある高部屋神社(当時は糟屋八幡宮)の社殿は、天文二十年(1551)に地頭渡辺石見守 によって再興されたと伝わる。城と渡辺氏に関連があるのかは明らかでない。 <手記> 『日本城郭大系』には「糟屋左衛門尉有季居跡」、現地説明板には「丸山城」とあります。 丸山城というのは『下糟屋村外六ヶ村地誌』にみられる呼称で、明治時代に字名が殿ノ窪 から丸山に変更されて以降の名称だそうです。なので、ここでは一般的な呼び方に合わせ 「糟屋氏館」としました。 館跡は、歌川と渋田川に挟まれた高台にあります。かつては高部屋神社境内が中心と されていましたが、発掘調査を踏まえた推定縄張り図をみると、室町時代には国道246号 を挟んだ北西側の方が主郭だったように思います。こちらは丸山城址公園として整備され、 小さな子供連れの家族でにぎわう広場の公園となっています。 高部屋神社門前は、江戸時代には矢倉沢往還および大山道の宿場が置かれ、神社前 を上宿、普済寺の前を下宿と呼んでいたそうです。糟屋氏時代からすでに道が通っていた とすれば、これを押さえる目的もあったと拝察されます。 城址公園の外周からは、堀や土塁、虎口が検出されています。このうち、空堀は保存の ために埋め戻されていますが、公園の南西と北西の隅に土塁が残されています。史料に 乏しい城跡の公園としては、かなり良好に整備されていると感じました。 高部屋神社南方の南蓮寺には、太田道灌の首塚とも伝わる墓所があります。糟屋館 近くの洞昌院にある墓所との関連は不明ですが、こちらの城と道灌との関連を示唆する ものとも思われます。ただ、空堀に横矢が設けられているあたりなど、最終的な改修者が 後北条氏時代である可能性は高いだろうと考えられます。 |
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高部屋神社。 | |
丸山城址公園の説明板。 | |
城址公園のようす。 右手奥に北西隅の土塁が見えます。 |
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高部屋神社裏手の空堀検出地点を望む。 | |
城址公園南西隅の土塁。 | |
城址公園南西隅土塁の外側を望む。 遊歩道のあたりに空堀が巡っていたそうです。 |