糟屋館(かすや)
 別称  : 上杉館
 分類  : 平山城
 築城者: 上杉定正か
 遺構  : 不詳
 交通  : 小田急線伊勢原駅よりバス
       「産能大前」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           名将太田道灌が暗殺された場所として知られている。暗殺の首謀者で道灌の
          主君である扇谷上杉定正が築いたとされる。下糟屋にある糟屋氏館と区別する
          ためか、上杉館の名で呼ばれることも多い。だが、いつごろ築かれたのか明らか
          でなく、また正確な所在地さえ不明である。
           文明十七年(1485)に万里集九が糟屋の「府第」に宿したことが『梅花無尽蔵』
          に記されており、これが糟屋館の史料上の初出とされる。しかし、この「府第」が
          どのようなものを指しているのかは詳らかでない。
           文明十八年(1486)、扇谷上杉氏家宰であった道灌は、主君定正に糟屋館へ
          招かれて暗殺された。入浴後に湯屋を出たところを、曽我兵庫頭に襲われたと
          いわれる。『太田資武状』には、道灌は死に際に「当方滅亡」と叫んで絶命したと
          ある。また広く知られた伝説としては、兵庫頭が「このような時にも歌が詠めるか」
          と問いかけたところ、道灌が「かかるとき さこそ命の 惜しからめ かねてなき身と
          思ひ知らずば」と返したとするものがある。
           長享二年(1488)、長享の乱に際して定正と対立した山内上杉顕定が、糟屋館
          を一気に陥れるべく鉢形城を1千の兵とともに発った。河越城にいた定正は報せ
          を受けるとわずか2百騎を率いて急行し、糟屋館近郊の実蒔原で顕定軍を襲った
          (実蒔原の戦い)。この戦いには勝利したものの、定正は七沢城を失った。
           その後の糟屋館については不明である。後北条氏の進出によって扇谷上杉氏
          の勢力が相模から駆逐されるに及んで、廃城となったものと推測される。
           なお、近年の産能大学建設に先立つ発掘調査で、V字型の大溝が検出された。
          直接館との関連を示すものではなかったが、このことから糟屋館は大学南東の
          崖端付近にあったものと推測されている。また『妙法寺記』では、道灌暗殺の地を
          「糟谷金造寺」としていることから、金造寺を道灌の墓のある洞昌院の寺名公所寺
          (ぐぞじ)の誤記として、洞昌院を比定地とする説もある(『中郡勢誌』)。


       <手記>
           糟屋館は、「空堀」と呼ばれる山王原の谷戸に面して築かれていたと考えられて
          いますが、詳しい位置については今も明らかではありません。現在最有力候補と
          される産能大南東の崖端は、南は「空堀」の谷戸に面しているものの、他の三方
          は広い斜面となっていて、館地形としては必ずしも相応しい場所とは思えません。
           幸か不幸か、比定地は第二東名の伊勢原大山IC建設地となっています。完成
          すれば、周辺の地形は見る影もなく改変されてしまうでしょうが、工事に先立って
          行われるであろう発掘により、少なくとも比定地が糟屋館跡であるか否かの議論
          には決着がつくことが期待されます。
           個人的には、比定地と空堀の谷戸を挟んだ南東に位置する上糟屋神社の方が、
          谷戸に突き出た台地の端という館地形を満たしているため、妥当なのではないか
          と考えています。ここなら、公所と呼ばれる洞昌院との間に古道も走っていて、より
          可能性は高いと思います。

           
 糟屋館跡比定地周辺現況。
「空堀」と呼ばれる谷戸。 
 上糟屋神社と洞昌院の中間付近にある七人塚。
 道灌を守って斃れた7人の家臣のものだそうです。
 太田道灌墓所。 


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