勝間田城(かつまた) | |
別称 : 勝田城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 勝間田氏 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、虎口 | |
交通 : JR東海道本線金谷駅よりバス 「陽光院前」バス停下車徒歩20分 |
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<沿革> 国人勝間田氏によって築かれたとみられているが、築城時期など詳細は定かで ない。勝間田(勝田)氏は藤原氏流を称しているが、詳しい系譜は明らかでない。 ただ、かなり古い時代から根付いていた一族であることは間違いなく、『保元物語』 には保元元年(1156)の保元の乱に際して、遠江国から源義朝に従った者のなか に「勝田」の名がみえる。鎌倉時代には、御家人として勝田姓の人物がしばしば 登場する。鎌倉末期ごろまでには、山上の城郭も築かれていたものと推測される。 文明八年(1476)、駿河守護今川義忠が勝間田修理亮および横地四郎兵衛の 討伐を目的として遠江へ出兵した。義忠勢の攻撃によって、勝間田城と横地氏の 拠点金寿城は落城した。しかしその夜、横地の南の塩買坂を通行中の義忠一行 を両氏の残党が襲い、義忠は流れ矢に当たって落命した。 これ以降、国人勝間田氏の名は史料には見られなくなる。勝間田城についても 記録には登場しないが、廃城時期は不明である。 <手記> 勝間田城は牧之原台地の入り組んだ丘陵地帯の一峰に築かれた城です。東麓 に複数台余裕で止まれる駐車場があるので、訪城は自家用車が便利です。そこ から城跡への道を登ると、茶畑となっている出曲輪跡を抜けたところに、城址碑や 堀切跡が見られはじめ、城内に入ったことが実感できます。 その先には、二曲輪と三曲輪の広々とした空間が現れます。2つの曲輪は土塁 による段差のみで仕切られていて、上段下段に分かれた1つの曲輪であるとみる こともできそうな構造です。下段である三曲輪には、大手口と思われる虎口跡や、 東端に2条の堀切が認められます。現在の登城路はおそらくかつての土塁を破壊 して貫き通されていて、当時の二曲輪の虎口は、おそらく三曲輪との境界土塁の 東端に開いているものです。二曲輪には、発掘調査をもとに建物が平面復元され ています。 二曲輪の後ろは細い頸部となっていて、堀切で断絶されています。その背後は、 2段の腰曲輪を経て本曲輪に至ります。本曲輪は面積は小さく、南西隅に櫓台状 の土塁が残っています。本曲輪の西と南に堀切が穿たれていて、南側にはもう 1つ曲輪が続いています。その先は2条の堀切があり、最後尾の造作となっている ようです。 本曲輪の東にも鞍部を隔てて曲輪があり、縄張図によればそのさらに東側には 尾根筋に5連の堀切が続いているとあります。ただ、こちらは藪化がひどく、最初 の堀切の先には進めそうもありませんでした。 勝間田城の特徴として、小さな曲輪と堀切の組み合わせを基調とする本曲輪 周辺と、広大なスペースを土塁で囲っただけの二曲輪・三曲輪という2つの部分 に分けられるという点が挙げられます。とくに二曲輪・三曲輪は細い峰の頸部に 前後を挟まれていて、小豆袋状の地形を成しています。こうした地形は、鎌倉末 から南北朝期あたりに好まれた選地のように思われます。対して、本曲輪周辺 の造作は、5連の堀切に象徴されるようにかなり時代を下ったものと考えるのが 妥当でしょう。したがって、最初は現在の二曲輪・三曲輪のみの城郭だったもの が、ある時期にその背後の峰へと拡張され、本曲輪がそちらへ移行したのでは ないかと、個人的には考えています。 |
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出曲輪跡を抜けた先にある城址碑。 | |
城址碑手前の堀切跡。 | |
三曲輪のようす。 | |
三曲輪の虎口。 | |
虎口脇の張り出し部の土塁。 | |
三曲輪東端先の2条堀切。 | |
二曲輪の土塁。 | |
二曲輪の虎口跡。 | |
二曲輪のようす。 | |
二曲輪背後の堀切。 | |
堀切背後の細長い曲輪と土塁跡。 | |
主郭下の腰曲輪。 | |
本曲輪のようす。 | |
本曲輪西側背後の堀切。 | |
本曲輪南側背後の堀切。 | |
南曲輪。 | |
南曲輪背後の堀切。 | |
東曲輪を見上げる。 | |
東曲輪東の堀切。さらに4本続いているらしいです。 | |
東曲輪から二曲輪を俯瞰する。 |