横地城(よこち) | |
別称 : 金寿城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 横地氏 | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、土橋 | |
交通 : 東名高速道路菊川ICから車で10分 | |
<沿革> 遠江の名族・横地氏の居城とされる。横地氏は源義家の庶子だえる太郎家長(家永)が、 遠江国城東郡横地郷に住したことにはじまると伝わる。史料上の裏付けはないが、事実と すれば、家長の母は遠江国榛原郡相良の相良光頼の女とされることから、その縁によって 横地に入植したものと推測される。横地城の築城時期については明らかでない。 文明八年(1476)、横地氏は同族ともいわれる勝間田城主勝間田氏と共に、遠江進出を 図る駿河守護・今川義忠と敵対した。義忠は兵を起こして勝間田・横地両城を攻め落とし、 横地城主横地秀国は城を枕に討ち死にした。しかしその夜、義忠は塩買坂で両氏の残党に 襲われて落命した。これにより横地城は廃城となったといわれるが、確証はない。 横地氏は横地城と所領を失ったものの、しばらくは遠江国内に留まったようで、永正年間 (1504〜21)までに再度今川氏の追討を受け、秀国の子・元国は甲斐の武田氏を頼った。 <手記> 横地城は複雑に入り組んだ牧之原台地の峰の1つにあり、国の史跡「菊川城館遺跡群」 に指定されています。それもあってか城内はよく整備されており、南麓に駐車場なども完備 されていました。城は大きく3つの峰にまたがり、西から「西の城」「中城」「東の城」と呼ばれ ているようです。 駐車場から真っすぐ登ると、西の城と中城の間の千畳敷に出ます。平時からここに住んで いたわけではなく、籠城時の居住空間も用意されていたものと思われます。まず、西の城に 登ると、中腹に横堀が巡っているのが目に入ります。頂部には横地神社が建ち、そこから 周囲に伸びる支尾根にはそれぞれ堀切が設けられているようでした。 中城はすぐ脇を道路が走っていることもあり、3つの曲輪群で最も規模が小さく、現状では 土塁の巡る頂部曲輪と背後の堀切が見て取れます。おそらく、西の城と東の城の中継地点 としての用途にとどまっていたのでしょう。 東の城は横地城全体の中心的な曲輪群とされ、別称の金寿城は、狭義にはこの東の城を 指すようです。山頂の主郭から雛壇状に曲輪が連なり、北側には井戸をもつ水の手曲輪が あり、その先も堀切と曲輪が続いています。 特徴的なのは、東の城の背後には堀切ではなく「一騎駆け」と呼ばれる尾根を削った土橋 が設けられている点です。この一騎駆けは、花倉城や朝比奈城、宮島城など駿遠地方の 城にしばしば見られる造作です。これが地域的な特徴なのか、今川氏周辺の築城法なのか ははっきりしませんが、興味深い防御設備と思われます。 現在目にする横地城の遺構は、応仁の乱ごろに完成されたといわれてあり得ない話では ないものの、堀切が多用され横堀も見られるという点に違和感を覚えます。規模や技巧性の 面からみれば、やはり横地氏滅亡後も遠江攻略の拠点として、今川氏に改修されて使われ たのではないでしょうか。 ちなみに最後尾の一騎駆けに対して、横地城の最前方には「金玉落としの谷」と呼ばれる 珍地名があります。読み方もご想像の通りで(笑)、一説には訓練の一環としてこの谷に玉を 落とし、下で待機していた兵士が争奪戦をして、拾い登った者に褒美が与えられたのが由来 といわれているそうです。事実であれば痛い話ではないようなので、男子諸君もご安心くだ さいませw |
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横地城の西の城と中城を望む。 | |
西の城(横地神社)への参道。 | |
西の城の横堀と土塁。 | |
同上。 | |
西の城頂部の横地神社。 | |
境内北東支尾根の堀切。 | |
境内西支尾根の堀切。 | |
千畳敷のようす。 | |
中城の標柱と説明板。 | |
中城の曲輪と土塁。 | |
中城背後の堀切。 | |
東の城(金寿城)の腰曲輪から主郭を望む。 | |
主郭と石碑。 | |
主郭からの眺望。 | |
東の城北側中腹の井戸跡。 | |
井戸曲輪脇の堀切。 | |
井戸曲輪先の細長い曲輪。 | |
その先の堀切。 | |
最後尾の「一騎駆け」。 | |
最前方の「金玉落としの谷」。 |