革籠原防塁(かわごはら) | |
別称 : 革籠原の防塁 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 上杉景勝か | |
遺構 : 土塁、堀 | |
交通 : JR東北本線白河駅からバスに乗り、 「皮籠」下車徒歩7分 |
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<沿革> 慶長五年(1600)の徳川家康による上杉征伐に際し、直江兼続の発案を受けて、 上杉景勝が築いたものとされる。兼続の作戦は、革籠原防塁に徳川軍を引き付け ている間に、常陸の佐竹義宣が側面を衝くというものであったとされる。 しかし、徳川軍は小山で石田三成の挙兵を知って引き返したため、白河が戦場と なることはなかった。 一方で、江戸時代の地誌などには「鍛治屋敷」と記載され、それ以前から城館が 存在していた可能性も指摘されている。 <手記> 革籠原は藤野川の2本の支脈に挟まれた細長い氾濫原で、当時は湿地に囲まれ ていたものと推測されます。白河南中学校南側の道路を少し東へ行くと、説明板が あるので見つけるのは簡単です。上に図示した通り逆¬字型に、二重の土塁と堀 が残っています。外側の堀と土塁はやや不明瞭なので、増設された部分とも考え られます。 土塁が二重になっているという点こそが、上杉氏の防塁であるという論拠なのだ そうですが、個人的にははっきりいってここで徳川軍を殲滅しようなどという遠大な 計画があったとは思えません。数万の大軍を足止めするには、最低でもこの3倍の 規模は必要でしょう。そもそも、おびき寄せて挟撃するのであれば、白河小峰城で 待ち受けていればよいはずです。 たしかに二重目の土塁は上杉氏の改修かもしれませんが、だとしてもその目的は 小峰城の前衛程度のものと考えます。そもそもの立地を鑑みれば、やはりもともと は在地領主の城館だったものを、上杉氏が取り立てて手を加えたと見るのが妥当 ではないでしょうか。 |
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革籠原の防塁跡説明板。 | |
西辺内側の土塁。 | |
内側の土塁上から空堀と外側の土塁を望む。 | |
北西隅のようす。 | |
北辺の堀と土塁。 | |
城内のようす。 |