瓦林城(かわらばやし)
 別称  : 河原林城
 分類  : 平城
 築城者: 貴志義氏か
 遺構  : 不詳
 交通  : 阪急神戸線/今津線西宮北口駅徒歩15分


       <沿革>
           建武三年(1336)の『貴志義氏軍忠申書』に「楯籠瓦林城郭 云々」とあり、赤松則村(円心)
          麾下にあった摂津三田の貴志五郎四郎義氏によって築かれたとみられている。その場合、
          円心討伐に失敗した新田義貞勢の退路と連絡を脅かすことが築城の目的とみられる。同年
          五月の湊川の戦いでは、南朝方の攻撃に遭ったともいわれる。
           永正五年(1508)、細川高国が細川澄元を追い出して上洛すると、瓦林城主瓦林(河原林)
          正頼は高国に属した。澄元に従い続けた瓦林姓の人物がいることから、これ以前から瓦林を
          領する瓦林氏が成立していたとみられるが、その出自は不明である。
           正頼は永正十三年(1516)に越水城を築いて移り、瓦林城には一族を置いたとみられる。
          同十六年(1519)には、澄元および三好之長の軍勢が四国から摂津に上陸し、越水城を攻囲
          し、翌年(1520)二月に落城させた。瓦林城も落ちたとみられるが、攻防戦があったかは定か
          でない。同年五月の等持院の戦いで之長が敗死し澄元も撤退すると、正頼は越水城を回復
          した。
           同年十一月十四日、正頼は高国から叛意を疑われ、自害を命じられた。ただし瓦林氏自体
          は存続し、瓦林城主として河原林幸綱の名がみられる。また天文十八年(1549)には、江口の
          戦いで之長の曽孫長慶に敗れた同族の三好政勝が、瓦林城に一時撤退している。
           元亀元年(1570)九月、四国から上陸した三好家臣篠原長房によって、瓦林・越水両城が
          攻め落とされた。このときの両城城主は瓦林三河守であったとされるが、戦死にして瓦林氏も
          滅んだといわれる。同年中に長房は織田信長と和議を結んで撤退しており、このときに瓦林
          城も廃城となったものとみられている。

          
       <手記>
           武庫川西岸の日野神社の社伝によると、瓦林弾正左衛門なる人物が瓦林城内に鎮守の社
          を奉じたのがはじまりとされています。このことから、日野神社境内が瓦林城跡とされています
          が、遺構など城砦に繋がるものは見つかっていません。神社の参道には城址碑が建てられて
          いて、境内は夏でも涼やかな社叢に包まれています。
           一方、神社はかつての上瓦林・下瓦林の両集落からはやや離れており、上瓦林(現瓦林町)
          の極楽寺から南にあったとする説もあります。この説は、極楽寺に正頼の墓があることが根拠
          となっていて、やはり確証あるわけではありませんが、今昔マップを見ると東辺に小沢が流れ
          る長方形の区画があり、可能性がないわけでもなさそうです。
           日野神社の方はというと、小川が両側を流れる細長い舌状の微高地で、さらに付け根には
          池があったようで、こちらも砦があってもおかしくはない地形と見受けられます。いずれにせよ
          1つ間違いないと思われるのは、瓦林城がどちらにあったにせよ、いかんせん小城であったで
          あろいうという点です。

           
 東町門跡の小社。土塁跡か。
東町門脇の堀跡。 
 清水町門跡。
南町門跡。 
 塚口御坊跡とされる正玄寺。


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