河崎氏館(かわさきし) | |
別称 : 河崎堀之内、河崎館 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 河崎基家 | |
遺構 : なし | |
交通 : 京浜急行京急川崎駅徒歩5分 | |
<沿革> 坂東八平氏の1つ秩父氏当主秩父武綱の二男基家は、武蔵国河崎荘に住し、河崎冠者を称した。 現在の川崎市中心部は武蔵国橘樹郡に属しているが、当時は同国荏原郡にあったとされ、多摩川 の北岸に位置していたと考えられている。 基家とその子重家は、武蔵国豊島郡谷盛荘や相模国高座郡渋谷荘を得て勢力を拡大し、重家の 子重国の代に、渋谷荘へ移って渋谷氏を称した。河崎の館がその後どうなったのかは定かでない。 『新編武蔵国風土記稿』によれば、かつて荘内に勝福寺という寺院が存在し、弘長三年(1263)に 佐々木泰綱を大檀那とし、5千人余の浄財を集めて梵鐘が鋳造された。泰綱の曽祖父佐々木秀義 は、平治元年(1159)の平治の乱で源義朝に属して敗れ、奥州を目指して落ち延びる途中、重国に 引き止められて渋谷荘に匿われた。秀義は重国の娘を娶り、五男義清をもうけている。秀義の死後、 嫡子定綱ら兄弟は源頼朝の挙兵当初から従軍し、鎌倉幕府成立の功臣として遇された。河崎荘が 何らかの理由で佐々木氏に譲られたものとも考えられるが、詳細は不明である。一般に、勝福寺は 現在の宗三寺の前身といわれ、同寺の寺伝ではもともと秀義の四男高綱が領内に建立した菩提寺 であるとされる。 『尊卑文脈』では、泰綱の母を河崎五郎為重の娘としている。これが正しければ、泰綱のころまで は河崎氏が存続しており、泰綱がその所領を継承したとも考えられる。ただし、為重なる人物の存否 については明らかでない。 宗三寺周辺には、戦国時代に佐々木氏後裔を称する間宮氏の居館が置かれていたとされるが、 河崎氏館との関連は不明である。 <手記> JRや京急の川崎駅の北東に堀之内町があり、この周辺に河崎氏の館があったものと比定されて います。周辺はすっかり市街地化されており、遺構はおろか町名以外に館跡を偲ばせるようなもの は何もありません。 ちなみに、堀之内町は歴史云々の前に有数のソープランド街としてその名を知られています。私が 訪れたのは朗らかな午後のひとときでしたが、かつてほどの勢いは失ったとはいえ、昼間から声は かけられました笑 |
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河崎氏跡比定地(堀之内町)。 |